偶然と創造と劇場―シンポジウム「劇場で、偶然みつける」レポート―|渡辺 健一郎
「舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点」における「ラボラトリー機能」。この可能性を問うため、「劇場」における「偶然」を主題にする――本シンポジウムはこのようなお題目のもと催された。
ここで「偶然」の語は、contingency ではなく、serendipityの意味合いで用いられている。例えばサイコロを振って6の目が出るかどうかは偶然に委ねられており、これはcontingentと形容される。他方serendipityという語は、振ったサイコロが角で直立し、出目とは無関係にサイコロ自体の造形美を発見する――こういったまったくもって不測の、しかし幸運な事態を表す際に用いられる。
ただしこの説明では充分ではない。登壇者の吉岡洋によれば、「そのときにはその結果の価値が分からなかったが、あとから振り返ってみてはじめて重要だったことが分かる」ようなときに、serendipityという単語が充てられるということであった。なるほどクリエイションの現場では、何が創作に生きてくるのか、その場では評価しようのない領域が確かにある。こうした意味での偶然が重要であることに疑いの余地はない。
ところが、「劇場における偶然性の実験/実験の偶然性」という展望のうちには、すでに複数の困難を見出すことができる。
1.われわれはしばしば「偶然が重要だ」と言う。しかしそう言ってみたところでどうなるのだろうか。当たり前のことのようだが、狙って起こせるならそれは「偶然」ではない。ではその偶然の生起に向けて何かできることがあるのか? 意図的に何かできてしまうなら、それによって得られたものは偶然ではないのではないか? 結局のところわれわれは、偶然性さえコントロール下に置きたいと思ってしまっているのではないか?
2.実験という語が用いられるときには、仮説の検証や、新奇な反応の発見などが目的とされる。実験を通じて仮に仮説が覆されたとしても、意図せぬ結果が再現可能であるならばそれもまた大きな一つの成果であるといえる。それはまさにserendipityの賜物だろう。ところが創造行為に際して、「再現」が何を意味するのかは定かではない。物理学などの実験においては条件を整えることが肝要であるが、創造/受容の現場で何が条件になっているかを同定するのは不可能と言っても良い。これだ、と思って発見した手法を反復したとしてもそう上手くいくものではない。それでは、創造にとって実験とは何か?
3.1980年代にアメリカで興った「パフォーマンス研究」という学問領域は、人間の演劇性、パフォーマティビティが日常に(も)遍在していることを明らかにした。以来先進的な演劇人たちは、もはや劇場にのみこだわる理由を持たず、むしろ創造性の端緒を世界のあらゆるところに再発見しようと腐心してきたと言っても良い。
それでもなお、劇場を拠点とする理由はどこにあるのだろうか。劇場でこそ顕在化する偶然、そのようなものがあるのだろうか?
シンポジウムのタイトルを見たときから、あるいは登壇者たちの言葉を聞きながら、以上のような問いが頭をめぐっていた。「偶然」や「実験」や「劇場」への問いを形だけのものにしないために、いかなる道筋を辿れば良いのか、足がかりを探していた。
一つのヒントが、京都芸術センター副館長、山本麻友美の実感のうちに垣間見えたように思う。京都芸術センターは、行政から委託をうけて運営されているため、どうしても目に見える成果を求められてしまうという環境下にあった。ところが近年、役人からむしろ「分からない」ものを求められることが増えてきたという。その要因の一つとして、山本は「時間的な積み重ね」を挙げている。京都芸術センターでは、若いアーティストの支援に力を入れているが、その中から世界的にも評価されるような人たちが10~20年かけて芽を出してきたために、公に納得してもらえるようになったのではないかというのである。まさに「あとから振り返ってみてはじめて、重要だったことが分かる」というserendipityの好例と言っても良い。
ここで問題にされるべきは、「偶然に身を委ねる」ことのできるマインドの醸成である。これは一朝一夕で身に付くものではないし、むやみにただ時間をかければ良いというのでもない。事後的に「実はあの経験は得難いものだったのだ」と発見するためには嗅覚が要るし、偶然を呼び込むための準備、こう言って良ければ何らかの技術も必要だろう。どこに行き着くのか分からない活動を継続する、体力とモチベーションも重要かもしれない。いずれにせよ恐らく、偶然マインドを不/可能にする条件をいくつか考えることができるはずだ。
私事になるが、2024年の6月にはじめて子どもが産まれた。彼女は親の一挙手一投足に反応し、ゴミの一つ一つにも興味を持ち、絵本の細部の一点に執着を示し、おなじおもちゃを飽くことなく舐めまわしている。毎日が発見であり、実験のようでもある。語源を辿れば、実験:experimentは経験:experienceと同根であり、「やってみて確かめる」といった程度の意味である。日々、世界を少しずつ確かなものにしていく姿はあまりに感動的に映る。
彼女に教えられたのは、世界の発見の好機は事実上無限にあるということだ。しかしわれわれの「現実」はそれをかなりの程度、縮減してしまう。発見の可能性は異物を体内に取り込んでしまうリスクと表裏であり、われわれはこうしたリスクを排除する方に舵を取りがちである。子どもがチラシの切れ端を唾液で溶かし、飲み込もうとしているとき、親はどうしてもそれを慌てて取り除いてしまう(無論、それは間違ったことでもない)。
ただしわれわれは、こうした「現実」の中にだけ存在することはできない。生/死という究極的な「分からなさ」に直面して呆然としてしまわないために、儀礼や遊びを必要とする。言ってみれば、「現実からの逸脱」の機会を社会システムのうちに取り込むことで、「現実」はようやく頼りなく存立しているのだ。演技の起源の一つである憑依儀礼などもまさに、こうした逸脱を折々に出来させるための知恵、文化であると言えるだろう。
serendipityという語が広く用いられはじめたのは19世紀頃からのようだが、それは人々が再現性や効率性を至上命題とし始めた時期とパラレルだと言えるのかもしれない。つまり、そもそものはじめから「現実」の中心に付随していたserendipity的なものの価値が脅かされ始めたため、それをことさら声高に求める必要が出てきたのではないか。
おそらくわれわれの大きな課題の一つは、社会全体で偶然マインドを少しずつ取り戻すことにある。これは現実的な成果を求めるという方法では達成されえない。
憑依に類する現象は世界各地に散見されるのだが、人類学の知見を借りて言えば、その現象が出来するためにはいくつかの条件や道具が揃わねばならない。体調、気候、姿勢、酩酊、仮面など様々な項目を挙げることができるが、ほとんどすべての地域に共通した条件の一つに、特異な場、すなわち「劇場」の存在がある。
劇場は、ただ空間的に他の場所から切り離されているだけではなく、「何を信頼するべきか」、「何を基準として行動するべきか」といった価値や制度が現実から遊離した場である。したがって舞台上に立ったり観客席に座ったりするとき、人は普段と別の存在になってしまっているとさえ言える。現実的な条理からいったん離れたその人たちの間で、マインドの感染がはじめて可能になる。
無論、これはリスクを伴うだろう。歴史上しばしば、演劇が宗教や国家から統制、禁止の対象とされてきたのは、意味のないことではない。しかしだからこそ、絶えざる実験が必要となるのである。異質に感じられるマインドも、ときには口に入れてみて、その味やにおいや触感を確かめてみなければならない。知らず知らずのうち劇薬に身体が蝕まれていて、気付いたときにはもう手遅れ――そんな事態に陥ってしまう前に。
渡辺 健一郎 Kenichiro WATANABE
1987年生、俳優、批評家。ロームシアター京都リサーチプログラム「子どもと舞台芸術」2019-2020年度リサーチャー。演劇教育活動の実践と哲学的思索とを往還した文章「演劇教育の時代」で第65回群像新人評論賞受賞。著書に『自由が上演される』(講談社、2022年)。追手門学院大学非常勤講師(2023年~)。