橘 蓮二特別講座「芸を撮る」レポート〈前編〉
今年も好評のうちに幕を下ろした『春風亭一之輔×桂二葉 二人会 2025』。公演当日には、会場である春秋座ホワイエにて「橘蓮二写真展」が開催され、その展示会場を舞台に、瓜生山学園生を対象とした特別講座「芸を撮る」が行われた。
登壇したのは、本公演をプロデュースした橘蓮二氏。講座では、アナログからデジタルへの移行といった写真を取り巻く環境の変化にも触れながら、質疑応答も行われた。
ここでは、当日の雰囲気とともに、講座の模様を前後編に分けてお届けします。

まず、橘さんの写真家になられたきっかけなどをお聞かせくださいますか。
36枚のフィルムが教えてくれた「有効な無駄」
橘 : 僕は、どこか組織に所属したという経験が無く、写真学校を中退した後にアルバイトをしながら写真を撮って売り込む活動をしてきました。そんな生活を10年ぐらい続けたものの、30代半ばの頃に行き詰まってしまった。どの世界でもそうですが、何でも撮れるのって何にも撮れないに等しいんですね。何かに特化していく、もうこれしかできないというものがないと、所謂カメラマンとして続けていくのは難しいと思いました。
30代半ばに、最後に何か好きなものを撮ってから辞めようと、上野にある鈴本演芸場に直接電話して写真を撮らせてほしいとお願いしました。もともと人物をメインに撮影していたので、人物を撮るにしても、ただ高座を撮るのでは面白くないと思い、楽屋にいる時の芸人さんを撮りたいと。今から考えると無茶なことで、基本的に楽屋は部外者は入れない場所、そこで写真を撮るなんてもっての外だし、仕事でもないので当然断られるのではないかと思いながらお願いしたのですが、本当に運良くお席亭(演芸場の経営者)が受け入れてくださったのがスタートです。それが30年前ですね。それまで中途半端だったのが、なんとか“演芸”に救ってもらった、それが演芸写真を撮る人生の始まりでした。
安藤: 舞台写真と言えば舞台上で公演している時の写真を撮ることが多いですが、橘さんは楽屋で撮られた。それが興味深いですね。
橘 : そうですね。
皆さんの中で、写真を撮っている方は?(学生:多く手が挙がる)
皆さんは若いので生まれた時からデジタルだと思いますが、僕が写真を始めた頃は、まだフィルムの時代でした。楽屋は、ステージ、高座ではないのでかなり暗いです。デジタルであれば、後でモノクロにすることも色の調整もできますが、当時はフィルムなので、高感度のフィルムをさらに増感、いわゆる粒子は粗くなるけれど明るさを足す作業をフィルムに施してからプリントをする作業を行います。
僕がデジタルで仕事するようになったのがすごく遅く、50歳近くになってからでした。ずっとフィルムでやっていたこと、習得したことは今では全く使えない、一言で言えば今では無駄なことを何十年もやってきたわけですが、「有効な無駄」というのは絶対あると思っています。
例えば、35ミリフィルムの場合は最大で36枚撮ることが出来ますが、その36枚を自分の中で常に頭に描いてないと。良いタイミングでフィルムを交換しなきゃいけないし、デジタルカメラのようにモニターでの確認ができないので、良いものが撮れたなと思っても現像したら全然違っていたらどうしよう…。そんな恐怖心が常にありました。デジタルになってそれが解消されてありがたいとは思います。やはりお仕事なので、失敗するわけにはいきませんから。
昔は、撮った写真をモニターで見られないからカメラに異常があっても気づけなかったので、カメラを2台持ちして両方で同じ被写体を撮り分けたりもしていました。フィルムもカラー、モノクロがあるので、この写真はモノクロで撮るとかカラーで、と最初に決めないといけなかったんですね。
ネガフィルムではなくてリバーサルフィルム、ポジフィルムというのは非常に露出(編注:写真の明るさを決めるためにカメラに取り込まれる光の量のこと)が難しく、メーカーによっては増感ができないので、露出を1ミリも狂いがないように出さないといけない。昔は露出も今のように機械がやってくれないので、顔のところで明るさを測ってカメラの設定を調整する作業を常にやっていました。デジタルになって、そういうことを気にしないで撮れるのはすごくありがたいんですけど、昔の緊張感を持って写真を撮る姿勢というのは、今となっては「有効な無駄」になってるかなと思います。
安藤: 私が初めて拝見した橘さんの作品は、空間を生かしたポートレートでした。被写体を撮るだけではなく、一見無駄に見える、空いている空間が活かされていると感じました。
自分が自分の一番のファンであり、いちばん厳しい批評家であること
橘 : 落語家や芸人の方々と付き合ってきた中で感じるのは、この世界のトップクラスでやってる皆さんには共通するところがあって、それは自分に対しての距離の取り方だと思っています。
芸人さんは、高座と楽屋での雰囲気はだいぶ違うんですよね。カメラマンもそうですけど、自分の一番のファンは自分じゃなきゃダメなんです。しんどい時や全く評価されない時は自分がファンじゃなきゃ。自分のことは信じようって思うと同時に、逆に自分に対して一番厳しい批評家でもないといけない。だから、自分の写真を見たときに「いや、これは違う、もっとこうできたんじゃないか」と、常に自分に対して厳しい部分と、自分はやれるっていう自分に対するファンの部分と両方持ってないといけない。売れている芸人さんたちが生きている表現の世界は、たいていそうなんですよね。自分との距離の取り方ですよね。自分さえ良ければ良いわけでもないし、やっぱり人が見るもんだから。
楽屋では高座とは違って、すごく緊張しているとか、この人は意外に怖がりなんだなとか、いろんなことが分かります。落語家さん、芸人さんのそういう裏の姿を見て、そっちのほうに惹かれたし、そういった心の動きは高座に出ます。
安藤: 被写体との距離感の取り方が非常に難しいんですね。
橘 : 難しいですね……。自分の納得と人の評価にズレが出ちゃうとすごく迷うんですよ。自分は「これは良い」と思っていても、評価は意外にそうでもない。反対に、自分はそれほどでもなかったのにとても評価されることもあります。そうなると、どっちが正しいかではなく、どっちも正しいしどっちも間違っていると思わなきゃいけないんです。自分のファンは自分だし、自分に対しての批評家も自分じゃなきゃいけない、正解が無いっていうことだけが分かっていれば良いんですよ。
立川談志師匠や人間国宝だった柳家小三治師匠とは晩年までお付き合いがあったんですが、亡くなる間際まで常に「もっとやれるんじゃないか」「こないだの高座はもっとこうだったはずだ」とか、「俺はもっと落語が上手くなりたい」と言って死んでいったんですよ。学生の皆さんは、これからの長い人生、表現に関わっていかれると思いますが、分かったと思ったらそれは錯覚で、将来おじいさんおばあさんになるまで表現を続けて、亡くなる時に心から「あぁ、表現ってのは分かんなかったな」ってことが分かればいいんですよ。でも、分かった人は一人もいないんです。だから、そこだけは覚悟を決めて、錯覚しないように、自分の中で自分との距離の取り方をしとかないと。トライ・アンド・エラーでやって失敗して初めて分かるんですよ。
人は良いって言わなかったけど、ここは自分の強みかもしれないっていうストロングポイントも自分で分かってくるので、いろんな人たちと交流すると良いのではないかと思います。
表と裏の間
安藤: 橘さんが写真を撮られる時はどこから撮影されていますか? 通常は、舞台写真は演じられている表(客席側)から撮りますよね。
橘 : 僕は(舞台)袖から。正面からは撮らないですね。
安藤: そういう点で「表と裏の間の人」っていうふうに(言われています)。
橘 : そうですね。落語家さんだと、蕎麦を食べているところが決定的瞬間だよみたいなことを言う人がいます。僕は正面からの所作とかはどうでもいい、決定的瞬間って無いと思っています。逆の言い方をすると、全てが決定的瞬間だと思えば良い。僕はカタログのような写真は最初から撮る気が無い。高座は袖から撮ると落語家さんのいろんなところが見えるんですね。落語家さんは正中線といって、腰から下が安定してるんですよ。上半身が動いてても腰から下が安定している、スポーツ選手みたいなものですよね。腰ごとグラグラ動くような下手な人だと、やっぱりお客さんは集中できない。軸がブレないと、お客さんも集中して聴けます。一之輔師匠もそうだし、(※写真を見ながら)二葉さんが少し傾いててもこの腰から下はあんまり動いてない。
舞台袖から撮ると、僕は必然的にお客さんと芸人さんのちょうど「間」にいる、するといろんなものが見えます。ある人から「橘っていう写真家は、表方と裏方の真ん中にいる人」って言われたんです。それはすごく腑に落ちました。今のようにお話したり、写真を撮って発表したり写真集を作ったり、自分で文章を書いたりする。「橘蓮二」として発表するから表方なんですが、普段は裏方、例えばプロデュースは裏方ですよね。そのちょうど間に自分はいる、という気持ちでいます。服装や髪形も今は真っ黒なんですが、昔は金髪だったりしました。
安藤: そんな時もありましたね。
橘 : 金髪で、洋服も適当に着ていました。でも、演者さんも僕が撮影に来てるのは知ってるし、反射率の高い服を着てると視界の端に入るので、いつの頃からか「これは邪魔になるな」と思って自然と黒しか着なくなっちゃった。
余談ですが、鉄道を撮る写真家は逆に反射率の高いものを着るんですよ。いわゆる鉄道写真家はダイヤを全部調べて、例えば紅葉が綺麗な時期にはその場所に車で先回りして、鉄橋を渡るダイヤを全部読んでそこを狙う。普通は人がいないとこから写真撮るので、(服の)反射率が高くないと運転士が急に人がいるのが見えてびっくりして危険だから、遠くの運転士に知らせるために反射率の高いものを着るんです。その逆で、僕は視界に入ると気になるから黒しか着なくなっちゃった……。どんな写真のジャンルでもエキスパートはいる。ファッション写真家はファッション写真家のノウハウ、やり方があると思います。

撮らない、という選択
橘 : 演芸写真家なら、なるべく演者さん側に立つ。さっきお名前を出した柳家小三治師匠が、ある時珍しく僕に話しかけてきて、「俺、ちょっと今日あんまり調子良くねえんだよな」と言ったんですよ。普段喋りかけてこない方だから、何か伝えたいことがあるんだろうなと思って、僕はその日は「じゃあまた撮影は次回願いします」と撮らなかったんですよ。撮ったからって怒るという話じゃないんですけど。演芸写真家として長くやっていくためには、その時の芸人さんの体調を含めて、調子良くなさそうならなるべく察する、最悪撮らないで撤収する。演芸写真家って僕はそういうものだと思っています。
若い時だと、自分がどうしても撮りたい、こうしなきゃと思いがちなんだけど、キャリアを重ねて、演者さんの気持ちに立つスタンスになりました。
安藤: 写真を撮られる時にはいろんな考えを持って撮られているんですね。「無駄なこと」、とおっしゃっていましたけれども、写真を撮る技術のことだけではなくて、人との関係性や演芸とはどういうことかを考えながら撮られている。
橘さんが演芸写真家の第一人者として30周年を迎えた記念に、今日このように写真を展示していますので、写真を見ながら少し学生の皆さんにご質問いただきましょう。
橘 : 僕が撮っている演芸写真が正解でもないんですよ。たまたま「橘蓮二っていう写真家はこう見た」っていうだけです。名作を撮れるカメラは売っていません。同じ場所で同じカメラを持って同じ被写体を撮っても、写真家が違えば当然見るところや考えが違う。
僕が若い時、写真を勉強した頃に「カメラ前」というのをよく言われました。写真は絵のように自分が思ったことを直接キャンバスに描くのではなく、必ずカメラという機械を間に挟む、すなわちワンクッション入るから、自分にはどう見えたのかというのを常に考える癖を付けなさいと言われました。カメラはあくまで道具で、撮る人のマインドや考え方が全て反映されるから、もっと自分で考えなさい、と。映像、例えば映画なら始まりがあって途中があってクライマックス、と時間軸があって、それを逆回しや順番を変えて見る人はいませんよね。でも、写真集や個展だと時間軸が無いから、どこから見ても良いわけです。僕にとってスチールの写真で何が一番大事か? 「写ってないところ」を見た人がどう想像できるかを考えるんですよ、例えば先ほどお話した「間」の部分ですね。
10数年前、さだまさしさんの写真を撮っていた際に言われたことがありました。僕が「写真って写ってないことが大事だと思うんです」って言ったら、さださんが「音楽も一緒。聞こえている音じゃなくて、実は聞こえてない音のほうが大事なんだよ」と仰るんです。聞こえてはいないけれど聞こえてるんだよ、と。
写真家も見たまま、ただ目の前の現象だけしか撮れないんだったら、絶対に映像のほうが強い、音もあるし画が動くから。でも、映像に勝るスチールの写真ってある。この写真はいつまでも見ていられる、みたいな。写ってないところまでちゃんとその写真家が見て考えて撮っているということだから、演芸写真を撮り始めた時も、ただ正面から所作だけ撮るっていうのは全然考えなかった。むしろ(写真を指差しながら)、こういう画角や後ろ姿でシルエットにすることで、二葉さんがその時にどんな思いだったのか、どういう緊張感なのか、というのが見た人に伝わったら良いなと思って撮ってますね。
安藤: 非常に写真哲学的なことも含めて、良いお話を聞かせていただきました。
それでは、ここにある写真を橘さんと一緒に皆さんと話しながら見ていこうと思います。
後編はこちら → 橘 蓮二「芸を撮る」レポート〈後編〉
橘 蓮二(たちばな・れんじ)
1961年埼玉県生まれ。1995年より演芸を主題に写真制作を行う。高座や楽屋、舞台袖といった演芸の現場に長く寄り添い、噺家や芸人の姿を静かな視線で捉え続けてきた。
著書に『カメラを持った前座さん』(ちくま文庫)、『高座 橘蓮二写真集』『噺家』(全5巻)、『この芸人に会いたい』『夢になるといけねぇ』(以上、河出書房新社)、『本日の高座』(講談社)、『喬太郎のいる場所』(CCCメディアハウス)『演芸写真家』(小学館)などがある。2015年からは、写真家としての活動に加え、落語会の演出やプロデュースにも携わり、演芸の魅力を多角的に伝える試みを続けている。