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『舞台芸術』9号(2006年1月発行)特集:記録主義 より 記録と記憶ー機械的複製技術と舞台芸術ー 渡邊守章

『舞台芸術』9号(特集:記録主義)に掲載された渡邊守章氏のテキストをお届けします。
渡邊守章(わたなべ・もりあき)演出家、フランス文学研究者

1 記憶の舞台から

 なるほど舞台は一回限りのもので、作り手も受け手も、謂わば一期一会の経験をするものだから、舞台は一回限りで消えてしまうのがよい、と言うか、消えてしまうべきなのだ、といった言説は、多分、舞台と呼ばれる営為に接した時から、少なくとも物心ついた頃から既に、聞かされてきたように思う。しかし同時に、伝統演劇あるいは伝統芸能なら、師から弟子への芸の伝承というものも厳然とあって、記憶を前提としない舞台というようなものも、想像することが難しい。これはこれで、もう一つの経験則であった。

 一方では「生き字引」といわれるような役者がいて、演技や舞台の記憶を自分の体に収蔵していたし、他方では、どの国の演劇であれ、文字を知ってからは、台詞のみを記録し、伝承したわけではない。特に日本のように、「伝統演劇」を名乗るジャンルが存在するところでは、たとえば能の小書きや型付け、囃子の手の譜から、歌舞伎の「付帳」や「型」の記録まで、舞台の記憶を伝え、それを次の上演に役立てるという発想や作業は、必ず行われてきた。しかしこの特集で問題にされるのは、単にそういう記憶の伝承の話ではないだろう。今更らしく引くのも躊躇われるほど手垢のついたベンヤミンの用語を用いるならば、「機械的複製技術」による記録の問題である。それも、舞台のように三次元の空間で、時間軸に展開する表象であるから、問題にされるのは、映画あるいはテレビによる記録である。その前の時点で、実は舞台写真と呼ばれるものも、未だに根底的な問題形成の枠組みをもっていなかったにせよ、である。

 日本における舞台映像の記憶としては、言うまでもなく昭和10年に、野上豊一郎博士が作られた能の最初の記録映画『葵上』があり、これは桜間弓川のシテを始めとして、同時代の脂の乗り切った演者を動員して実現された、空前絶後と言ってよい記念碑的映画であった。歌舞伎においてそれに匹敵するものを探せば、それは二つある。第一は、今触れた能の記録映画とほぼ同じ時期に、六代目(尾上)菊五郎の踊る『鏡獅子』を、松竹キネマが新鋭の映画監督小津安二郎によって映画にしたものであり、第二は、戦争が激しさを増してきた昭和18年に当時の歌舞伎座で、七代目松本幸四郎の弁慶、十五代目市村羽左衛門の富樫、六代目菊五郎の判官という配役による『勧進帳』を、マキノ正博監督が記録したものである。歌舞伎は、新発明の蓄音機という技術にはかなり初期から関心を示していたから、私なども明治元年生まれの祖母が愛蔵したレコードを、戦災で焼けるまではよく聴いたものだが、映画となったものは、確かに九代目団十郎と五代目菊五郎が野外で『紅葉狩』を演じていて、そこには丑之助時代の六代目が山神として出演しているという、万国博覧会なみの考古学的資料ではあったが、後は素人の撮った8ミリ・フィルムであって、戦前にプ口が撮ったフィルムとしては上記の二本しかない。しかし六代目の『鏡獅子』は、まずドーラン化粧に始まって――「これじゃあ、まるで黄疸になった弥生だ」とのっけからご機嫌が悪かった――、撮影の手順による中断が繰り返されたというような現場的な、予想されると言えば言えるが、何しろ初めてのことだし、集中して踊り続ける舞台とは全く裏腹の事件の続出の挙句の作品だから、出来上がったものも全く六代目の気には入らず、お蔵入りになってしまった。このフィルムが陽の目を見たのは、ようやく戦後になって、しかも六代目の没後のことであった。

 既によく知られているこの三作を敢えて冒頭に引いたのは、「名舞台」というものを後世が「鑑賞する」という観点からしても、この三作はその要請に耐えるものを持っており、特に役者の演技という、実際に見・聞きしない限りは実感し難いものが、ともあれこれらの映像で伝わってくるという経験をしているからである。

 たとえば桜間弓川の御息所の怨霊が、橋掛かりでシオル(泣く仕草)時のその妖艶としか言いようのない長い手首の鋭い色気や、「後妻打(うわなりう)ち」の後で扇を後見座へ投げて、壺折の衣裳を引き担いて、葵上を表わす小袖を見込むところの、なんともヅカッとした骨太の演技。

『鏡獅子』で言えば、六代目の小姓弥生が、咲き誇る牡丹の花を愛でて、花弁の「散りくる」様を舞うときの、あの決して細身とはいえない体が、そのまま花弁の散る狂おしい運動に合体して脱我の境を出現させる。六代目が生涯を賭けた「踊り」とはこういうものであったのか。というのも、最晩年の六代目はほとんどすべて観るようにしたが、その頃はしばしば「舞台を投げている」と評されて、全ての舞台がよかった訳ではない。戦後最初の所謂『大忠臣蔵』の六段目「勘平切腹」で受けたような特権的な感動を常に得られたからではないからだ。極めて逆説的に、これこそ「真の六代目」であろうという思いを、映画というコピーから感じてしまうのだ。

『勧進帳』は、弁慶役者として一世を風靡した七代目幸四郎の映像であるから、その記憶において語られるべき『勧進帳』であるが、しかしこの記録映画の貴重な点は、別のところにある。それは六代目の判官であり、その名高い「解釈」、すなわちこの作品は元来が能の『安宅』なのであるから、判官義経は「能の子方」として演じるべきだという主張が、具体的にどのように実現されていたかが鮮明に読み取れ、かつそれが何故かくも感動的な一瞬を作り出しているのかをも解くことが出来るからだ。それは富樫が退場した後、義経主従が懐旧にふける情景だが、上手に回って着座する判官は、歌舞伎の文法を意識的に破って、弁慶に正対する。つまり客席に対して直角に座るのである。しかしこれだけなら、歌舞伎役者のさかしらで終わったかもしれない。その後に来るあの瞬間、つまり「判官御手を取り給い」で、弁慶に向かって右手を差し出すときの、その姿の可憐さ。あの大きな体が、まるで床すれすれの背丈の少年のように、低く美しく変容する。しかも六代目という「座標軸」の存在のお蔭で、実はこの映画映像は、歌舞伎の近代化という大きな歴史の内部で、役者の演技や作品理解がどのような変容を蒙ったのか、その典型的な様態をそこに「読めるもの」として見せてくれているのだ。七代目幸四郎は、積極的に西洋近代劇も演じた経験もあるという意味で文字通り近代的な「同化の演技」を、ほとんど絵に描いたように演じてみせる。美貌の十五代目羽左衛門は、江戸歌舞伎以来の歌舞伎の「快楽原理」を一身に体現した二枚目のように持て囃されたが、この富樫を見ていると、相手が幸四郎ということもあったかも知れないが、結構筋道の立つ芝居もしている。そして近代主義などというレベルには留まらず「近代性」の精髄において歌舞伎を生き直してしまった「踊りの天才」六代目菊五郎。この舞台映像こそは、ほとんど歌舞伎の「近代化のパラダイム」を教えてくれる一級のテクストだとすら言えるのであった。

 こうした舞台映像の創成期から、ほとんど一世紀を経ようとしている今、能・狂言や歌舞伎の現場では、「個人から個人へ」といった伝承に学ぶ時間的な余裕すらなく、それに奇妙な機械技術への信仰もあって、先輩等のヴィデオを見て稽古をするのは当然のように考えている人が多い。こうした事情からも、映像媒体に対する関心も伝統演劇のほうが強いようだが、勿論そこには、舞台映像がソフトとして商品化される可能性も高いという現実も見逃せない。西洋世界で言えば、こうした発想はオペラやバレエに当てはまるものだが、しかし、西洋世界も含めて、そうした「資本の論理」が通用しない場となると、事態は突然、前近代へと逆行する。私くらいの世代だと、まずはヴィデオによる舞台の収録そのものが、技術的に「高嶺の花」であった時期は決して短くないのだから、年代的に言えば、1970年代の舞台の映像は、当時の新劇は言うに及ばず、持て囃された小劇場であれ、極めて少ないはずだ。杉村春子主演の文学座というのは、NHK舞台中継班が恐らく「古典芸能」なみの評価をしていたから存在する、極めて例外的な場合だろう。そうなのだ、そもそもNHKが舞台中継をしてくれなければ、舞台の映像的記録など作れなかった時代は長かったのであり、現場の制作者で、そこへ食い込もうなどと言う、下手をすれば役者とのトラブルにもなりかねないような余計な仕事に情熱を燃やす者もいなかった。

2 記録の舞台

 こうした環境にあって、演出家としては、自分の演出した舞台の記録を残したいという思いは、一貫してあった。長い稽古を経て、舞台稽古を終え、初日が開いた後も、私は多くの新劇の演出家のように、「幕が開いたら後は何も出来ない」とは考えていなかったし、可能な限り本番の舞台を客席にいて見ることにしていた。客席の呼吸という、一番正直な受け手でもあり、またその日その日によって異なりもする、作り手としては統御不可能な反応を、自分の体で知っておきたいからだ。もっともこれは、明らかに小劇場の発想であり、新劇ではほとんど異常な選択だと言われた。しかしピーター・ブルックがある時語っていたように、舞台稽古まで、計算に計算を重ねて、これなら本番は大丈夫と思って客席に座って、いざ幕が開くと、これもだめ、あれもだめ、なにからなにまで気に入らないという経験は、演出家なら、よほどおめでたい人でない限り、誰でも知っている試練である。客席の視線から、舞台を捉え返しておくこと。それは、次の作業にとっても重要である。俳優の立場からすれば、録画された映像など見たくもないという人が多いし、確かに不満足な映像を見ると、演出家だってうんざりする。しかしこういう「見え方」もあったのだという認識を、自分の創造的な問題形成の中に組み込むことは重要である。謂わば自身にとっての外部の視座を確保すること。

 しかし映像化の必要は、そうした作業の現場の内部に留まるものではない。むしろ、外の世界との関係を作るためには不可欠なのだと言ったほうが正しいだろう。単純に考えても、見る機会のなかった人々にアピールするためには、文字情報だけでは足りるはずがない。やはり映像記録を残す以外に道はないではないか。始めに挙げた昭和十年代の能や歌舞伎の映像によっても明らかなように、ともあれ後世が受け取ることのできる舞台のイメージの成立し得ることは確かなのである。身近な事例で言えば、1970年代からのオペラやバレエの舞台における目覚しい成果は、いくら海外旅行が容易になったからといって、全てに立ち会うことなどできはしない。例えば、歴史的な事件とすらなっているバイロイト百年祭のシェロー=ブーレーズによる『ニーベルンクの指輪』四部作にしても、毎年3チクルスしか上演されず、しかも客席数は1900なのだから、『四部作』の「通し」を観うる観客数は、一夏で五千人余であり、五年間かけても、観客数は2万8000人である。世界中で、これだけの数の人しか知らない――もっとも、通しで見ることの出来たほとんど幸運な観客の他に、一部しか観る機会のなかった人々が半数近くいるはずだから、事情は一層複雑だろう――これは、如何にも異常ではないか。シェローがみずから全曲録画をしたのは、当初から組み込まれていたこととはいえ、当然であった。

 日本の舞台となれば、今もって世界的な共通の場に立っているかどうか疑わしいのだし、先ず以て知ってもらう必要がある。そのためには、機械的複製技術に訴える以外に方法はない。しかも、現代における知の生産=流通=受容の仕組みで言えば、たとえば書物の場でも、20年前とは大いに異なってきている。たとえば、フランスの個人全集の叢書として最も権威のあるガリマール社の《プレイヤード叢書》では、2001年暮に、ミシェル・コルヴァン校註『ジャン・ジュネ全戯曲集』を出したが、これは、現代における劇作品の校註に規範となる例と言ってよい。ミシェル・コルヴァンの作業は、現時点で発見されたジュネの草稿及び関連資料を駆使して厳密なテクスト校訂を展開すると同時に、現在までに世界中で行われたジュネ戯曲の重要な初演、新演出の詳細な分析をつけている。この「演出」の項の分析の対象となるものには、コルヴァン自身が見た舞台もあるが、多くは、それぞれの上演に関する映像資料体によっている。こうした形で、我々の『女中たち』(1995年)と『バルコン』(2001年)についても、「演出」の項に、ヴィデオ映像と活字資料から再現した詳しい分析が、世田谷パブリックシアターにおける『バルコン』の舞台写真と共に載っている。

 従来でも研究については、日本人によるその成果が《プレイヤード叢書》の書誌に引かれることはあったが、日本における演出が問題にされることはまずなかった。しかし、例えばラシーヌ没後三百年記念行事(1999年)の一環として催されたポール=ロワイヤル=デ=シャンにおける「フェードル――絶対の選択」には、われわれが1986年に国立シャイヨー宮劇場で公演した舞台の写真やマケットが展示されたし、同じ年に刊行された『ラシーヌ総事典』では、『フェードル』の項目のグラビヤのトップを、後藤加代のフェードルが飾っていた。つまり10年か20年前のように、日本が一方通行的な情報輸入国に留まっていた時代とは異なって、文字通りにグローバル化されつつあるということなのだ。当然そこには著作権や上演権についての権利・義務が伴っており、かつてのように、演出家の思いつきでベケットを勝手に改竄するようことは罷り通らないのである。こうした環境にあっては、情報発信の一様態として、映像資料の記録・伝達は、ほとんど当然の前提となるだろう。

 話を80年代に戻そう。この時代には、舞台を記録に残すことの重要さなどは、集団のなかで全く認められなかったから、演出家個人の負担で知人に依頼して、カメラ一台でもいいから舞台を記録するという作業を始める以外にはなかった。その背景には、演劇集団円における実験的なラシーヌ悲劇の上演があり、これは、使われなくなった鉄工場という、「何もない空間」に、客席貫通型の舞台を設営して行うという、当時としては、文字通りの「プアー・シアター」の実践があった。「橋掛かり=本舞台=橋掛かり」という客席貫通型の演技エリアを作って、観客が両サイドから舞台を見つめるという、空間の演出と、そこでラシーヌ詩句を発しうる役者の身体を作ることを課題としていた。フランスなどでは、プロセニアム舞台の廃絶は、所謂「六八年型前衛」の共有するところであったが、どういう訳か日本の小劇場運動は、地下の小空間やテントに籠っても、「舞台・客席対面型」の構造をほぼ常に守ってきたから、こうした「客席貫通型」の舞台の仕掛けについては、ほとんど未知数のまま放置されていた。従って、その「場の文法」を手に入れるまでには、従来の新劇型西洋モデルそのものを廃絶する必要があったのである。

 観客の目にどう見えるかを取り返すためにも、こうした映像化の作業は意味があったが、しかし、一台のカメラだけで撮る舞台のイメージには限りがある。しかも、赤いベッチンの上にヴィニールのシートを敷いて、その床面を真上から照明が照らすという、つまりハレーションで虚構空間を作っているようなものだから、ヴィデオに録画するには最悪の素材であった。この「仕掛け」としては、パルコ=パートⅢで観世榮夫氏と作った能ジャンクション『葵上』が、武司当時の野村萬斎のデビューしたての「時分の花」もあり、しかもプロが三台のカメラで撮って編集したから、最も成功した映像となっている。

 大劇場で作品を作るようになり、それなりにヴィデオ収録の機会が増えたからと言って、それがそのままで私の期待を満たしてくれたわけではない。現実はむしろ反対であり、銀座セゾン劇場における『かもめ』や、彩の国さいたま芸術劇場における『サド侯爵夫人』を収録したWOWOWのような優れた成果もあったが、われわれのプロダクションで依頼するクルーには失望させられることのほうが多かった。最悪なのは、経費の関係で「劇場に出入りしている業者」などに、「記録」と称して撮らせると、これは七五三の記念写真しか撮ったことのない考古学的遺物のようなカメラ・センスと撮影技術で対応してくるから、全くお話にならない。舞台に十数人役者が出ていると、舞台の進行と関係なく、下手から上手へバスト・ショットを撮っていき、一体何事だと注意すると、「記録ですから全員写っていないとまずいので」などと答える。こうした煮え湯を飲まされるような酷い経験をしていると、パリで上演した際の録画を知人のフランス人カメラマンに依頼した経験とは、余りと言えば対照的であった。このフランス人のカメラマンは、日本語を理解しないが、しかしカメラマンとしては、国立映画学校(フエミス)の出身者であり、映像作りのプロである。従って、フレーミングと言わずカットの繋げ方と言わず、十分な予算措置がなされていたわけではないにもかかわらず、見事であった。例えば、1999年の『悲劇フェードル』改訂版(パリ日本文化会館)にせよ、2003年の『内濠十二景、あるいは《二重の影》』の再演にせよ、テレビのチャンネルによる放映に耐える質を持っていた。

 こういう極めて現場的な関心は、私自身が放送大学でテレビの授業番組や特別講義を持っており、映像素材が必要だと言う、もう一つの現場の要請もあったからだが、事はそういう個人的な事情には留まらないだろう。そもそも、始めにも書いたように、「舞台写真」というものが、未だにまともなものではなく、そのことも、1986年に国立シャイヨー宮劇場に巡業したときに驚かされた重要な事の一つだった。カメラのための衣裳付ゲネ・プロをやってほしいという劇場側の要請もあり、当時は稽古は多ければ多いほどいいと主張できるように演出家も役者も若かったから、本番どおりの稽古を行った。客席貫通型の舞台を、シャイヨー宮のプロセニアムに組むと言う贅沢が許された演出であったが、当然カメラマンは、四方八方から舞台と役者を狙う。驚くべきことに、劇場専属のカメラマン――彼は舞台写真を革新した一人であることを後で知るのだが――のほかに、八人くらいのカメラマンが来ていたが、その一人一人に二人の助手がついている。日本の劇場で出会う不愉快な現象、つまり舞台の山場で、フィルムがなくなって装填している間に、場面は終わってしまうなどという馬鹿なことは起こりようがない。二時間余の舞台の間中、ひっきりなしにシャッターの音が鳴り続けていたのである。この情景は、見に来ていた日本の芸能記者を驚嘆させた。どうせ五分もすれば引き上げると思っていたら、最後まで休みなしに撮っていたが、日本では全く考えられない光景だと。

 テレビ録画について言えば、器材のデジタル化が進む前は、成否を決めるのは「スイッチャー」であり、その「スイッチング」であった。客席に何台カメラが入っていようと、録画の回路に繋がっているのは一台だけであり、そのカメラが映像を逸すれば、全てはお釈迦になるという驚くべき仕組みなのであった。従って、収録の打ち合わせもさることながら、スイッチャーがどういう人であるのかについては、神経質にならざるを得ないのだが、これも業界の都合を乗り越えるのは難しい。ディレクターのセンスや志向にもよるところが多いのは言うまでもないし、そもそも作品も舞台も、収録した結果としての映像についても、確固たるコンセプトを持っている人は少ない。単純な例を挙げよう。映画の世界で、俗に「音源主義」と言われるカメラ・ワークがある。要するに、音声が出てくる源である人物は必ず撮る、ということであり、極端に説明的な「カメラの切り替え」に繋がっていく。映画においては、今や素朴実在論のようなこの技法が罷り通るとは思えないが、これを舞台について実践するとどうなるかは、くどく書く必要もないだろう。これは、実はクローズ・アップへの妄信があることとも無関係ではない。確かに「お茶の間」で見るドラマは、要するにタレントの顔のクローズ・アップで保たせているのだから。

3 映像の論理

 映像は対象の切り取り方だけに左右されるわけではない。しかし、ともあれ舞台の映像化である。そこで演じている役者を撮ることには変わりがない。舞台の俳優だけと仕事をしている時には気がつかなかったこと、あるいは問題として顕在化しなかったことに最初に気づいたのは、先の野村萬斎(当時の武司)で「パルコ能ジャンクション」という実験的な作品を、例の「客席貫通型」の舞台で作った時である。客席にいても、四方から見て美しい姿を作るように作ったことは確かだが、上演の際にも、それを録画した映像でも、隙や不十分なところは多々あるにもかかわらず、映像として成立している。快楽原理としての映像の出現と言ってもよい。それまで私が作ってきた舞台は、そんなことを考える余裕もなく、またそんな余裕を持たせるような舞台でもなかった。映像は、舞台の《強度》を、できるだけそのようなものとして「再現すればよい」のであった。

 こうした「映像の自律性」の体験を二度目、しかももっと強度のある樣態においてしたのは、『女中たち』における本木雅弘の「演じる身体」を前にしてであった。本木としては、まさに映像のタレントとしての自分を乗り越えるために、ジュネの『女中たち』という難曲に挑んだのであるから、演出家としても、極めて禁欲的なイメージを追求したのは当然であろう。しかし、大詰めの「素顔に白いドレスで、毒入りのお茶を飲む」情景で、HMIの冷たい光がやや背後の上から照らし、同時にハーフ・ミラーの後からはACの放列がハレーションによって本木の素顔を浮かび上がらせると、これは『シブがき隊』の頃にも見られなかったように思う美少年の顔が一瞬浮かび上がって、闇に消えて行く。舞台がそのままで映像へと変容したような体験。それは、テレビ収録に際して、先に述べたような不信感から、中継チームの中に入って、敢えてスイッチャーの横に座るという越権行為を犯したのであるが、この際のスイッチャーは幸いにも有能な人で、収録用台本のカメラ割りよりは、モニターに映る映像を信用していた。そして私が驚いたのは、本木雅弘のクレールは、カメラの位置もカメラ割りも、一切予告していないにもかかわらず、ほとんどどこから撮っても美しく見事であったことだ。これは、「舞台で私が作るつもりになっていたものを記録した映像」などという水準を遥かに超えつつあるのではないか。映像の自律、あるいは「映像人間」の出現。

 そこで、最初に書いた舞台映像の記憶に回帰するのだが、桜間弓川の『葵上』は能楽堂で撮影していることもあって、橋掛かりなどでバスト・ショットのクローズ・アップはある。しかし、六代目の『鏡獅子』は、歌舞伎座を貸切って、カメラは、後に小津の売り物となる「畳の高さの目線」を既に実践していて、それが、六代目をほとんど七頭身くらいにスマートに見せてはいるが、しかしクローズ・アップなどはない。マキノ監督の『勧進帳』は、歌舞伎座の本番の撮影であるから、カメラの位置は二階席正面と上手寄りと下手寄りであろう。いずれにせよ、クローズ・アップなど撮れるはずはなく、バスト・ショットすらもない。役者は、常に全身が映っている。

 こうした映像は、舞台を舞台として見るためには極めて貴重である。少なくとも、客席ではあり得ない視座や視線を持ち込んでいないからだ。しかし同時に、それと同じ事を、現在の舞台で行って、果たして同じ効果を生み出すことが出来るかどうか。経験則としては、否定的である。一つには、始めに挙げた三つの例は、日本の過去一世紀の間で見ても、例外的に傑出した役者による傑出した舞台なのであって、こうした特権的な事例を一般化するのは、現場にとって酷と言うものである。映画という機械技術による複製媒体を介しても、そこで演じていた役者たちの「アウラ」は、見事に生き続けてしまった。それが、機械的複製技術とそれを用いた映画作者たちの力量にだけ由来するのでないことは、ほぼ明らかであろう。

 しかし現代においては、映像を受容する側の視覚も生理も全く変わってしまっている。好むと好まざるとにかかわらず、現代の受容の視覚は、テレビ映像の文法に支配されているから、舞台の記録に関しても、そこで優先し、規範となるのは、映画ではなく、テレビの文法である。これはやはり、舞台の側からすれば、記録の媒体や技術の問題を遥かに超えて、由々しい問題のはずである。

 そうした環境にあっては、舞台の映像による記録は、写真と映画しか存在しなかった時代とはまったく異なる問題形成を自らに課さなければならないのではあるまいか。舞台の記録である以上は、客席にいて体験したことが、最大限掬い取れることが前提であるという主張は、私も演出家としては至当だと思う。しかし他方で、その映像を、独立した映像として鑑賞するに堪えるものにするのかどうか。またそのためにはどうすべきであるのかは、不可避的な問題として立ち現われてくる。機械技術的な補助的装飾を加えることなどを問題にしているのではない。「写真と映画しか存在しなかった時代とは異なって」などと書いたが、実は、その時代の経験としても、舞台映像の問題は十分に思考されてはいないのではないか。舞台において優れていて、映像においても見事だという成果が、不可能ではないことを、経験則として知っている者としては、こうした「経験的な知」を、一方では《映像》という名のキマイラの分析に役立てるべきであろうと考えるし、他方では、舞台芸術の新しい受容の、ということは発信のチャンネルへと接続すべきだと考えている。

付記――実はこの原稿の校正の時期に、かつて1988年に演出したクローデルの『真昼に分かつ』のヴィデオを、公開の席で見せるという経験をした。このことについては、別の機会に書きたい。

渡邊守章 (わたなべ・もりあき)
1933年生まれ。東京大学・放送大学名誉教授。舞台芸術研究センター主任研究員。専門はフランス文学、表象文化論。演出家。著書に『越境する伝統』等。訳・注解にクローデル『繻子の靴』(上・下、毎日出版文化賞、日本翻訳文化賞、小西財団日仏翻訳文学式受賞)、バルト『ラシーヌ論』(読売文学賞受賞)、個人訳『マラルメ詩集』、クロード・レヴィ=ストロース『仮面の道』(共訳・改訂版)など。能ジャンクション『葵上』『當麻』、クローデルの詩による創作能『内濠十二景、あるいは〈二重の影〉』『薔薇の名―長谷寺の牡丹』を作・演出。『繻子の靴―四日間のスペイン芝居』を翻訳・演出。レジオン・ドヌール勲章シュバリエを受章。