尾上和彦 作曲 オペラ
「月の影」-源氏物語-
尾上和彦 作曲
オペラ「月の影」-源氏物語-
原作:紫式部
台本:ツベタナ・クリステワ
指揮:尾上和彦(26日)
奥村哲也(27日)
演出:茂山あきら
作曲者よりメッセージ-源氏物語が現代に語るもの-
日本の古典文学の特徴は物語に織り込まれている詩歌(和歌)にある。そのひと言ひと言葉は水晶のように、様々な角度から幾とおりにも解釈出来るものである。この日本独特なものといえる和歌の役割は、不思議にも西洋のオペラのアリアに似ている。物語を引き締め、高めてゆく様は、源氏物語のオペラ化をさぐっていた私の大きな発見であった。物語の中の重要な和歌をアリアにして、その現代語訳をレチタティーヴォ(旋律付き語り)として構成すれば、まさしくオペラである。私はそのレチタティーヴォを、語部の紫式部と、中宮雀の女房たち(ギリシャ悲劇でいうコロス)に表現させ、その女房たちを重要人物にも変身させた。このオペラ「月の影」のタイトルは、台本作家いわく、“古代日本人の哲学の基本概念の一つであり、源氏を初めとする古代日本文学のエッセンスでもある。「影」でも「光」でもある/ない「月影」は、空と土、生と死、形見と忘却、精神と肉体などの対立項の融合や分裂を表現する美的な場になっている。一方、あるいはだからこそ、それが私たち、現代人にとって、日本古典文学がもっている最も重要なメッセージにもなっている。”と述べ、“光源氏が善人ではないのと同じように、六条御息所も完全な悪党ではない。”と言いきる。私は「愛の裏に憎しみが眠り、憎しみの底に愛が潜む」と女房たちに歌わせた。源氏物語は、人間のもつ煩悩の働きによる業 (カルマ)の良い・悪いの反省の書といえるものである。“もののけ”(心の闇)から描かれたこの壮大な源氏物語をテキストに、オペラ「月の影」が言わんとする人間がもつ哀れを通奏低音として描きたい。
尾上和彦
あらすじ
プロローグ 限りあれば
限りとて別るる道の悲しきに
いかまほしきはいのちなりけり
今を去る千年の昔、若官三歳のとき、母桐壺の更衣は、女御たちのねたみを買い、病に冒され世を去る。
残された若宮は、母の美しさをいただき、人々に「光源氏」と呼ばれるようになった。
生まれながらにして、「月の影」、陰にして光を放つ定めであった。
第一幕 露のあわれ Intermezzo 白浪のなごり
光源氏とライバルの頭中将が、しめやかな宵の雨に、女の品定めをしている。嫉妬深い女、我慢強い女…、女性の話は続く。頭中将は、わが子を宿し、姿を消した夕顔について語り、光源氏は、母そっくりの帝の女御藤壺に思いをはせている。
しばらくして、光源氏も夕顔に出会い心を奪われる。しかし、光源氏に強い嫉妬を抱く六条御息所の魂が、生霊となって夕顔を襲う。息絶えた夕顔との死別を嘆き悲しむ光源氏は、若紫を発見し自分の邸に連れて行く。そんなとき、藤壺の宮のご懐妊(光源氏との物のまぎれの)が伝えられる。甘い痛みと苦い喜びにおののく藤壺。さらに、末摘花、源典侍、朧月夜など、光源氏のまわりを美しくも多彩な女性がめくる。
賀茂祭の賑わい。見物席の場所取りに、葵上と六条御息所の軋蝶激しく車争いとなる。
その夜懐妊中の葵上を物の怪が襲う。その正体こそ恋の道、泥の道に苦しむ六条御息所。
葵上、夕霧を出産して死ぬ。六条御息所は斎宮に選ばれたむすめに付き添って旅立つ。
他方、美しい女性に成長した紫上は、光源氏と契りを交わしその最愛の妻となる。
ある時、光源氏と朧月夜の逢瀬が発覚。弘微殿の逆鱗に触れ、光源氏は自ら京を離れ、須磨へ。明石に渡り、琴の音に引かれて明石君に出会う。
第二幕 明けぐれの夢 エピローグ 水茎の跡
京に戻った光源氏は晴れやかな場に復帰。明石君は姫君を出産。紫上にその養育を託す。
一方、出家した藤壺は、我が子の秘密を光源氏に託して世を去る。
光源氏と紫上の心が通い合う嵐の夜。しかしその後、運命の嵐が襲いかかってくる。朱雀帝の懇請により、光源氏は女三宮と結婚、紫上の苦悩再び深まる。彼女を気遣う光源氏。孤独な夜を過ごす女三宮。そんな時、柏木はかねて恋する女三宮の元に忍び、女三宮、薫を宿す。光源氏がやっと二人の関係に気づくが、思えば、それは自分と藤壺の犯した過ちの因果応報と身のすくむ思いである。出産後の女三宮を、六条御息所の死霊が襲う。罪の意識にさいなまれる柏木は自分の命に代えて彼女を救う。女三宮は出家する。
その後、紫上は静かに他界する。光源氏は、紫上が残した手紙を読み、涙を流しながら燃やす。そして、その傍い煙の跡を追って彼も空の彼方に去る。
光源氏の命の灯火が消えても、恋の火は消えず、煩悩は断ち切れない。時も過ぎ、薫、匂宮に愛された浮舟は、世の憂いを飲み込んで渦巻き流れる涙の川に身を投げんとする…。
いつの世も、宇治の川瀬に澄み渡る月の影こそ、人の心に防り、輝く。