演じる高校生12周年企画
演じる高校生 誕生秘話
吉田美彦×橘市郎
春秋座オープン当時から続けられてきた春秋座名物企画『演じる高校生』。今年も、高校演劇コンクール近畿大会での最優秀校・優秀校の2校が春秋座の舞台で作品を披露します。今回で12年目(ひとまわり)を迎える本企画が一体どう立ち上がったのか。当時、近畿高等学校演劇協議会委員長だった吉田美彦先生と当センターのプロデューサー橘市郎が春秋座舞台上で語りました。
吉田美彦
大阪府立北摂つばさ高等学校 演劇部顧問/全国高等学校演劇協議会事務局長。「演じる高校生」立ち上げ当初は、近畿高等学校演劇協議会の委員長、大阪府立枚方高校勤務。
橘市郎
京都造形芸術大学教授、同大舞台芸術研究センタープロデューサー。歌舞伎俳優・市川猿翁氏(現)の要望で春秋座杮落としの1年前から4年間、企画運営室長を務めた。その後、昭和音楽大学に勤務。平成20年には再び、春秋座に。
第1場 『演じる高校生』との出会い
―― 本日は、ありがとうございます。 ではさっそく、「演じる高校生」がどういう経緯で始まったのか、 その成り立ちからお伺いできますでしょうか。
橘 私がこの劇場を立ちあげた時、色々な企画を考えていたのですが、春秋座は大学という教育機関の中にある劇場なので、 高校生にもこの場を提供できないかと思っておりました。 それで高校演劇はどうだろうと、全国大会を観に行ったんです。
でも。会場は客席が2000人ぐらいの大きな会場で、 生徒のセリフもよく聞えないし、表情もよく見えない。 このようなところで力作を上演しているのであれば、 もっと条件の良い本格的な劇場で発表してほしいなと思ったんです。
本当は全国大会を春秋座でやりたかったのですが、 すでに先々まで場所が決まっているとプログラムに書いてある。そこで、せめて近畿の優秀校2校だけでも招待したいと思って、再びプログラムを見ると枚方高校の吉田先生が 近畿の委員長だと書いてある。 そこで枚方高校に飛び込みで「ぜひ!」と ご相談させていただきに行ったのが最初だと思います。ですよね。
吉田 はい。そうでした。私が電話を受けましてね。 本当に失礼な話ですが、大学名を聞いても分からなくて、 学生募集のお話かなんかかなと思ったんです(笑)。 いらっしゃったのは、9月、10月ぐらいでしたかね。暑い時でね。
橘 そうですね。夏の大会を観た後でしたのでね。
吉田 劇場のオープニングビデオを見せてもらいまして、色々と話を聞いてみると今、お話があったように 全国大会を春秋座でやりたいとお話されたので、びっくりしまして。
全国大会は国体みたいに毎年、場所が変わっていくものですよ。というお話させていただいたりしたと思うのですが。 最初、その段階ではすぐにお返事できなかったと思うんです。
橘 そうですね。
吉田 というのは、私としても加盟している近畿の各県の役員に 企画の説明をして意見を聞かなくてはいけない。 なので、どういう企画内容で、どう進めていけばいいのか、 改めて考えていただけませんか、11月に近畿大会がありますので、 10月の会議で相談してみましょう。とお話させていただきました。
橘 確かね、2、3回は訪問したと思うんです。
吉田 はい。
橘 なんとか先生にお願いして。春秋座はやりやすい劇場だから、ここでやれば高校生の成果がもっともっと上がりますから、 ということでお願いしたんですね。
吉田 でも、会議にかけたからといって 次の年に開催できる保障もありませんし、 私達も劇場を拝見したこともなかったので、大阪の役員何人と見せていただきに行ったんですね。 そしたら、びっくりして!
私、大学が京都でしたから、ここの近くに下宿していたんですよ。 だから割とここ(造形大)が元、どうだったかは知っているんです。 専門学校(当時は専門学校のみだった)は山だったし、 舞台はてっきり叡電の駅の近くに立ったのかと思っていたら、 大学の奥にどんどん行くと、 この劇場があって。 設備もそうですし、下(奈落)も見せていただいて 本当にびっくりして。
見せていただいてから、これはなんとか実現したい。 ここで高校生ができたらいいなと思いました。 大阪の役員達もそう思ったと思います。
橘 その時、こういうお話をしたのを覚えています。 高校野球には甲子園という檜舞台があって、 みんな、そこを目指してがんばる。 演劇にもそういう檜舞台を提供したいのと、 アカデミックな先生方の中には、「高校演劇をしている人達はハッキリ言って将来、伸びない」というような方もいらっしゃるけれど、 私はそうではないと。 好きこそものの上手なれということがあるように、 とにかく演劇が好きになれば人の芝居も観るだろうし、 演劇史も紐解いててみるだろうから、 とにかくまずは好きになってほしい。 好きになってもらうためには、ここで演じてみたいとか、 目標になる場所が必要だと思いますよ。と。
でも最終的に「やりましょう!」となるまで時間がかかったのと、 実際に決まってから開催まで時間がなかったので、第一回目は手探りでやったんです。 チラシも最初は朱と白の2色だけで作ったんですよね。 上右側のシンプルなチラシがそうですね。
吉田 でも最初は、これだけ長く続けられるのかなというのがありました。 京都の先生にご迷惑かけてはいけないので 私や大阪府の役員も受け付けに立ちったのですが お客さんもものすごく少なかったし、一回目は大変でしたね(笑)。
橘 なんでもね、初めてやる時は色々な方がいらっしゃいますからね。
でもね、『演じる高校生』は、京都で開催しながら 京都の高校があまり出場していないんですね。 だから京都の高校が盛り上がらなくて、 私としても何回続くのかな、というのがありました。
でも、出場してくださった方は本当に楽しんでくれているし、 将来、俳優としてプロになるとかならないとかより 演劇を楽しんで、そこから何かを発見したりすることで その後、どんな職業につこうが、 そこで経験したことは何かに繋がると思うのですね。 私も高校生の時にオペラをやりたくて、部を作ったのですが、 それが今、非常に栄養になっています。(※詳しい話は第3場へ) だから高校生に思う存分活躍できる場を提供することで、 夢が持てて、さらに演劇のレベルが上がったり、 演劇部のある高校が、どんどん増えたらいいなと思ったんです。
吉田 ここ数年は、「コンクールを観に行けなかったから春秋座で観よう!」 というのが定着してきたと思います。 近畿圏内といっても広いですから、遠くて観にいけない場合は ここで観ようという流れができてきましたね。
橘 そうですね。高校ごとに団体で申し込む方が増えてきましたし。 私が嬉しいのはね、出演する学生さんが、 せっかく春秋座でやるんだから、花道を使ってみようとか、
吉田 アハハハ
橘 スッポンを使ってみようとか、
吉田 はいはい。
橘 コンクールよりも照明を凝ってみたいとか、 こういう劇場だから、もうちょっと色気を出そうとか、そういう意欲が出て来たというのがとっても嬉しいですね。
吉田 そうそうそう。 コンクールだと時間の制限を始め、色々と制限があって、 やりたいことが充分にできないこともあるのですが、 春秋座に出演した生徒や顧問から聞くと、 これだけの設備の中で自由にできることが 何よりも一番嬉しいことだそうです。
それに3年生にとっては、春秋座が最後の舞台になるのです。 そういう意味では、ここで自分たちの造り上げてきたもの、 一番、完成されたものをここでできる。 また、それを私たちも観客として観ることができる。
橘 仲間内だけで観るのではなくて、 大人が今の高校演劇ってどういうものをやっているのかな、とか、 若い人の考え方をぜひ知りたいという、 一般のお客様が増えて来ているのが嬉しいですね。 また、春秋座が刺激となってちゃんとした劇場で コンクールができるという動きが出てきたら もっといいなと思います。
―― 各地でもこういう「演じる高校生」の企画ができると。
吉田・橘 そうですね(笑)
第2場 「高校生」×「演劇」
橘 聞くところによりますと、 過去にいじめられた経験のある人たちが演劇をすることによって、 コミュニケーションをとれるようになるとか、 元気になるとか、そういう意味でも効果があるそうで、 あぁ、よかったなと思うんです。
小説家も詩人もどちらかというと虐げられた経験がある方が多い。 ハッピー!元気~!!だけで、良いものは書けませんものね(笑)。 そういう意味でも社会問題になっていることが 演劇によって解決されることはあるかもしれないなと思いますね。
吉田 部員の中には、そういう経験を持っている子もいるようですね。
かつて私の教え子の中にも不登校の経験を持つ子がいて、 中学校の担任が、その子が演劇部に入ったのを聞いてビックリして、 さらに舞台に立つ姿をご覧になって、感慨深く思われていました。 セリフを通じて人と繋がっているとか、 舞台に立つことで感情を表すことができるようになる。中学ではなかなかできなかった、そういうことが 舞台の上で自由に表現できるようになっていく。 そういう体験って大きいのだな、と思うことがあります。
それは特別のことではないんですね。 演劇部に入った、どの子達も自分自身を開放していけるようになる。でも、高校演劇をすることが次のステップに繋がっているか、 いないかということは、あまり私たちも意識はしていないんですね。 もちろん役者になりたいという子がいれば、もちろん応援はします。 でも、高校では、その子がどれだけ自分自身を自由に表現できるか というものとして演劇をとらえています。 そういう意味では、こういう檜舞台があるということは魅力ですね。
平田オリザさんもお話しされていいますけれど、 教育の中での演劇といいますか、「演劇と教育」という流れが、 かなり本格的に来ているなと思います。 私自身も現在の学校で週に2時間、演劇の授業をやっています。 そういう学校が増えてきているようですね。 まだ教科として独立する形にはなっていませんが、 授業にしていこうという人達が確実に増えてきていますから、 そのうち大学でも「演劇と教育」という講座が 増えてくるかなと思っています。 商業活動としての演劇と 教育としての演劇があることを強く感じますね。
橘 でも今は演劇部のある高校自体が少なくなっていますものね。
吉田 そうですね。少子化の流れが確実に来ているわけで。 大阪も10年以上前に随分前に統廃合がずっと進んでいますし、 基本的に2つの学校の演劇部が1つになるので、 単純に演劇部の数は減りますよね。 全国を見ても10年前には演劇部が2500校あったのが、 今は400校減って2100校になっています。
ですが、演劇が沈滞しているということではないんです。 高校演劇そのもののエネルギーや 高校生が表現したいことの根底は根本的に変わっていないので、 その時代、その時代の舞台に現れているなと思います。 私も事務局長の任期が後1年で終わりでして、 高校演劇コンクールの作り手たちも世代交代していきます。 昨年のコンクールを見ていますと、新しい作り手と 高校生達が新しい雰囲気を持ってきていると思いますね。 本当に演じたいと思っている高校生は 必ず何か新しいものを持ってきますので、観ていて飽きないですね。
橘 そうですね。時代と共に高校生の気質も変わっていきますからね。 私が高校演劇に期待しているのは、 未熟な部分もあるけれど16~8歳という一番ナイーブな時に 内から外に向けて出てくるもの訴えたいものが 作品に出てくることですね。
それと人間一人では生きてはいけないという、 コミュニケーション能力が演劇によって培われていくことですね。 あとは今後、春秋座の舞台を踏むと全国大会で上位を果たせる、 というような流れができたらいいなと(笑)。
吉田 10年程前、『演じる高校生』が始まってしばらくした頃、 全国大会への出場校を増やそうと言ったこともがあるんです。 そこで18校にしたら、審査員もスタッフも ヘトヘトになってしまいまして(笑)。やりすぎだろうっ!て。
高校演劇の全国大会は、年度を変えて翌夏に開催されるので 近畿大会で優勝した年の2年生が新3年生の夏に出場するんですね。 だから近畿大会で優勝した時の3年生は卒業するので、全国大会に出場はできない。 だったら大会をもう一つ増やそうと、春の全国大会を始めたんです。 たまたまですが3年連続、東北で行うことになりました。 昨年は仙台で開催しました。 震災後で予算的に無理だろうという話も出たのですが、 だからこそやりたいと言ってくれて。 今年は福島県のいわき市で、来年は岩手県の北上でやります。
本当は春秋座で開催していただいて、 全国の各ブロックの優勝校に舞台に立ってもらいたいですね。 全国的にも春秋座公演は知られてきていると思うんです。ただブロックが違うから、どんなところなの? というのがあると思うので、こういう素晴らしいところですよ。というのはその都度、お話したりするのですが、 やはり百聞は一見にしかずですから、 ここに来ていただきたいですね。 春秋座は設備や自由度、客席のキャパの面でも素晴らしいですよね。 全国の舞台を春秋座の客席から観られたら私も楽しいなと思います。
橘 ぜひ! ウエルカムですよ。
第3場 好きこそものの上手なれ
―― 今年度の演じる高校生のテーマは「12年目の高校生」でして、チラシでは、ちょうど12年前に高校生だった方に「どんな高校生だったか」、 現役の高校生には「12年後にどうなりたいのか」 という質問してデザインを行いました。
そこでお尋ねしますが、先生方は、どんな高校生でいらっしゃいましたか?
吉田 私は岐阜県の出身なのですが、岐阜北高校へ行こうと思ったのも演劇部があるからなんですね。中学の時に新聞に演劇部が全国大会に出ると載っていたんです。ストーリーは留学して来たユダヤ系アメリカ人の高校生が 日本に来て1年後、広島に行って悩むんです。 原爆を投下した側の人間としてですね。 そうしたら第三次中東戦争が起こってますます悩む。 実際にそういう生徒がいて、その生徒をモデルに顧問が脚本を書いて 中部の代表になったそうです。
それを読んだ私は「もう、ここしか行くところがない!」って。 何にも考えないで受験をして、入学式の後、すぐに部室に行って 「入部します!」と言ってから今に至るわけです。 ですから40年を越えて高校演劇の中にいるというわけですね。 そこから3年間は演劇部のことしか、していません。 他は何もしてませんね(笑)。
でも、岐阜の田舎ですから来る芝居も限られているわけで、 労演(※勤労者演劇協議会)の公演などを観に行くわけですね。 それが2、3年してくると東京の情報が気になって、気になって しかたがなくなってくる。「アングラって何だろう?」って。 観たくて仕方がないんだけれど観にいけない。 やっと高校3年生の時に黒テントと唐十郎さんが来て 岐阜大学のキャンパスの中にもぐりこんで、それを観て 「絶対これしかない!」って。そういう風に思ってやっていたのが 私の高校時代で、はい。他は何も無かったです。 よく卒業したなって言われます。
――そしていまは教師として教える側に・・・。
吉田 はい。とんでもないことだと思います(笑)。
母校には教育実習の時、隠れるようにして行きましたけれど(笑) 以来、恥ずかしくて行けません。
橘 私は1年生の時に集会係というのとオペラ部を作ったんです。 それは中学生の時から先輩に「これを聞け、あれを聞け」と言われて オペラが大好きになって、なんとか高校でオペラをやりたいと 部員を募集して作ったんです。 とんでもないことですが、『フィガロの結婚』や『魔笛』 『カルメン』だとかポピュラーなものをやっていたのですが、 オペラを教えてくれた先輩達が 「君たちは将来プロのオペラ歌手になるわけではないから、いいんだよ。こういうものに挑戦すると暗譜をするので 将来、自分がどんな職業をしようと、オペラが好きである限り、 役に立つから、やったらいいよ」 という意見をくれたのを取り入れてやったんです。 てっきり私が卒業したらすぐ潰れるのかと思ったら、 先日、同窓会に行くと、私は67回卒業なのですが 100何回卒業の女性が、「私もオペラ部でした!」と言ってくれて。
さすがに今はもう無いらしいのですが、 50年続いていたということを聞きました。 でも、その時の経験が私も今の仕事の原点になっているのと、 集会係では先生を説得して、授業時間を割いてもらい 落語家の桂三木助さんの独演会を体育館でやったり、 今やっていることと高校時代にやっていたことと 変わらないんだと思って。
だからこそ、高校演劇も好きになってもらって、 そこで「好きこそものの上手なれ」ということを 尊重したいと思っているんですね。 私の人生は挫折、挫折でね。 歌手の道も諦め、演出も自分の性格には合っていないと プロデューサーになったのですが、 やはり、お小遣いにしろ、アルバイト料にしろ オペラにつぎ込んでいたのが原点かなと思いますね。
吉田先生もそれしかない、 私もそれしかないというところで生き続けているので 長く好きなものにしがみついていれば、 どうにかなるんじゃないかなと思います。
吉田 本当にそうですね。