宮沢さん、ありがとうございました
しばらく黙っていてほしいとのお達しが出たので書かずにいたが、20日に訃報を出す、という話になり、このメルマガは23日配信だったので書こうかなと思う。宮沢章夫さんが12日にお亡くなりになった。という知らせが、白水社の宮沢さんの担当のW氏から13日に届いた。
断片的に宮沢さんのTwitterを覗いていたので、いつもうっすら具合が悪いというようなつぶやきをしているのも知っていたし、10数年前、結構大掛かりな心臓の手術をしたのも知っていた。宮沢さんは、当時ぱかぱかタバコを吸っていたわたしとケラさんに、「タバコはね、死ぬよ」と笑いながら言った。宮沢さんも、それまではかなりのヘビースモーカーだったが、手術後はピタリとやめたのだった。そんなにあっさりやめられるものかと思ったが、わたしも、ある日、心臓の痛みを感じ、その次の日から一本も吸わなくなった。もう10年くらいになるが、3年前、風邪をひいて肺の検査をしたら「汚いね!」と医者に言われた。
知らせを聞いてから宮沢さんのTwitterを久しぶりに覗くと、入院されていたのがわかった。なんの病気かには触れられていなかったが、最後のほうは、あきらかにとても具合が悪そうだった。最後のつぶやきを見ると「それにしても眠い。さよなら。宮沢章夫」。8月20日のものだ。なんにも知らなかった。そんなつぶやきを見たら、心配でたまらなくなっていただろう。なにかできることはないか、と思っただろう。なんにもできなかった。
20代の頃、ラジカル・ガジベリビンバ・システムを観て、宮沢章夫のとりこになった。大竹まことさん、竹中直人さんが抜群におもしろかったが、このとてつもなく先鋭的なコントの羅列のようでいて、最終的には、ひとつの物語になっているという、これまでまったく観たことのないような演劇? なのか演芸なのかわからない代物を生み出した人間に興味をひかれてならなかった。どんな人なんだろう? 何が好きなんだろう? どんなふうに喋るんだろう? 恋する乙女のようだった。
宮沢さんが、若い人たちを集めてラジカルの「若手版」を作りたいとの告知を出していたので、26歳だったわたしは生来の人見知りを力づくで押さえつけ、宮沢さんに直談判に行った。大人計画を作ったばかりで、まだ公演も打っていない頃だった。宮沢さんは、まだ誰でもない田舎者丸出しのわたしを、なぜか採用した。採用した若手の中には、のちに漫画家になる安彦麻理絵もいた。
それからわたしは、稽古場では宮沢さんの隣の席をがっつりキープし、どんな言葉も逃すまいと耳を研ぎ澄ませ、息をつくように出てくる冗談に笑い転げていた。ただ、ちょっとでもぬるい演技をすると、けっこう刺々しい言葉が飛んでくるので怖くもあった(わたしは、そんなに重要な部分を任されていなかったので怒られはしなかったが)。宮沢さんが怒るとめちゃくちゃ怖い、というのは業界では有名な話だ。公演が終わって、宮沢さんはわたしの旗揚げ公演を観に来てくれ、すぐさま劇評を書いてくれた。その劇評を読んだ放送作家のKさんが、次の舞台を観に来てくれて、それで、当時人気番組だったフジテレビの『冗談画報』に出ることになったのだ。今考えれば、試演会を含めて3本しか芝居を打っていない劇団が、キー局で30分のコーナーを任されるというのは奇跡のようなことではなかろうか。それから大人計画は、倍々ゲームで客を増やしていけたのだ。みんな宮沢さんのおかげだった。
それから、宮沢さんからラジオをやらないかと言われ、2年間、ラジオのコントを、宮沢さん作、出演、松尾貴史、ふせえり、松尾スズキでやることになった。週に一回集まって、5本のコントを徹夜で作り、それを月曜日から金曜日まで流すのだ。これでわたしは、なんとか食えるようになった。28歳か29歳ぐらいのことである。その二年間でコントの作り方を覚えた。温水と二人で「鼻と小箱」というコントユニットを作って、単独ライブもやった。ツアーもした。めちゃくちゃうけた。この二人でも『冗談画報』のオファーが来た。「鼻と小箱」は学園祭に呼ばれるくらい人気が出た。ただ、二人は素の喋りがまったくできなかったので、テレビでは撃沈した。しかし、おかげで60歳近くになってもコントを書いていられる。むしろ50代後半から、ずいぶんコントを書く機会が増えている。訃報を聞いたのも、まさにコントを書いている途中だった。思えばお世話になりっぱなしだった。
宮沢さんが静かな演劇方面に移行し始めてから、じょじょに疎遠になってしまった。宮沢さんは、どんどんアカデミックな人になっていき、なにか、迂闊なことは言えない、という気持ちに浅はかな自分はなっていた。宮沢さんも、うちの芝居を観に来ることはなくなり……多分、うちらがやっていることには飽きてしまったんだろうな、というのが率直な気持ちだ。それでも、たまにこちらから遊園地再生事業団の芝居を観に行くと、とても喜んでくれたし、何年か前はラジオに呼んでくださり、そのために『ウェルカム・ニッポン』のビデオを観てもらって、「あいかわらず野蛮だね」と言われたのは、やっぱり、すごく嬉しかった。
宮沢さんに、なにも恩返しできてない。なんで年賀状の一枚も送らなかったのだ。なんで、お歳暮にハムの一本も送らなかったのだ。宮沢さんが、そういう儀礼的な慣習をバカにしているんじゃないかという勝手な妄想で、それができなかった。そんなこと考えずに好きにやりゃあよかったのだ。13日から、そればかり考えている。
師と呼べるのは、生涯、宮沢さん一人だ。そう思うと、昨日の夜中、ベッドで涙が止まらなくなった。今日、葬儀があるのだが自分は行かない。とても行けない。わたしの宮沢さんとの記憶は誰とも共有できるものではないし、自分だけの宝物なのだ。ここのところ周りで人が死にすぎていて、自分のメンタルが持たない。今、教会で葬儀があげられている頃だと思う。今日は晴れていてよかったですね。
謹んでご冥福をお祈りします。さびしい。
(作家・演出家・俳優)
*本文章は、メルマガ 松尾スズキの【のっぴきならない日常】Vol.532 より、松尾スズキ氏ご本人の許可を得て、転載させていただきました。