「かっこいい笑い」とサブカルチャー
あれは松尾スズキさんが 『ファンキー!』 で岸田國士戯曲賞を受賞された、その授賞式の二次会のときでした。ですから、今から、もう 25年も昔のこと(四半世紀前)になりますね。1997年のことです。松尾さんの受賞を、その日、誰よりも喜んでいたのが宮沢章夫さんでした。アルコールを嗜(たしな)まない宮沢さんでしたが、二次会という酒席にまで喜んで参加されていました(しかも会場には一番乗りで)。ラジカル・ガジベリビンバ・システム以後の宮沢さんのお弟子さんら数名とご一緒に、松尾スズキさんや大人計画の皆さんの到着をお待ちしていたときのことです。宮沢さんが、弟子筋の方にこう仰いました。
「和久田君は新しもの好きだから」
そのころの僕は、当時発売されたばかりのパームパイロットをスノボのパスケースに入れて首からぶら下げているような頓痴気でした。手のひらサイズの電子手帳。いわゆるPDA(Personal Digital Assistant)。今で言う「スマホ」の原型ですね。宮沢さんは、パームOSの、Graffitiという文字入力方式の画期性について語り、やはり「新しもの好き」と宮沢さんが目する弟子筋の方にも使ってみてはどうかと紹介していたのでした。
宮沢さんに「新しもの好き」と言われて、ドキリとしたことを覚えています。なぜなら、その言葉は、ひとを揶揄するときに使われることが多いからです。
それはまた、前年の1996年、宮沢さんが作・演出を手がけたコント作品『スチャダラ2010』の公演に合わせて同名の単行本を編集したとき、その本のあとがきで「和久田君のことがよくわからない」と記されたこと以上に、僕の心の深くまでグサリと刺さりました(スチャダラパーら出演者の熱気に感染した僕が、デジカメとシールプリンターを携えて稽古場を訪れ、気がつけば舞台の掃除までしていたのには「あきれた」と)。
ありのままを、ずばり言挙げする。
「よくわからないもの」の可能性に賭け、「新しいもの」にも目ざとい人。
それが宮沢さんでした。自分の話に引きつけて語るのは烏滸(おこ)がましいのですが、その才能は、同時代の演劇人のなかでも傑出していました。それは、宮沢さんのエッセイの面白さが証明してくれるはずです(ちなみに、演劇人による「笑えるエッセイ」としては、別役実さんは「論理的詐術」のもっともらしさが特長で、中島らもさんはシュールリアリズムの「デペイズマン」を極意とし、宮沢さんはベケットの「エピュイゼ」=可能性の「消尽」をいかした思考実験の笑い)。
デジタルガジェットにも造詣の深かった宮沢さんは、Macを使うようになってからもHHKB(ハッピーハッキングキーボード)を愛用されていたようですし、「コンピュータで書くということ」には一家言ある先駆者でした。
ご自身で遊園地再生事業団のウェブサイトを運営され、まるで「自動筆記」であるかのような勢いで、膨大な量の日記をアップロードし続けていたことにも驚かされます。そう、その開設もちょうど1997年。四半世紀前のことでした。
手書きをきわめ、デジタルな手段を身につける。
今から思えば、そんな宮沢さんの「絶筆」がiPhoneで書かれたツイートであるというのは、とても切ないですが、じつに象徴的なことに思われます。
「かっこいい笑い」のフォルマリスト。
宮沢さんのことをそう言うこともできるでしょう。でもそれは、ただ単に「お洒落」な笑いの形式を志向した人という意味ではない、とここではあらためて明記しておきたいと思います。
確かに、知的にねられた「コント」を複数駆動させて、シームレスにつないでゆくという手法──宮沢さんが確立させた笑いのスタイルは洒脱で、かっこいい。外形的に、その緻密な作・演出には美学が感じられるのも事実ですね(シンプルな舞台美術も、かっこよくて)。それは、一時期はコンピュータプログラマになるのを本気で夢見ていたとも語る宮沢さんならではの、マルチタスクな思考法から導かれた美学だったのかもしれません。とはいえ、パフォーマーたちの身体性を蔑(ないがし)ろにしないということこそが、宮沢さんの本当の拘りどころだったはずです。芸人であれ俳優であれ、パフォーマーの魅力を最大限に引き出すことにより齎(もたら)される笑いに重心をおいていた、わけです。けっして、賢(さか)しらな知的スノビズムの笑いではなく。
笑いの世界で「くだらない」という言葉が「ほめ言葉」として使われることも多くなりましたが、宮沢さんにとって「かっこいい」という言葉は、「ばかばかしい」とか「でたらめ」とか「べらぼう」とかと同義でした。すなわち、「圧倒的な個性」を体現しているものに対するリスペクトというか、ユニークな(独特で、唯一無二な)ものへの憧憬です。愚鈍さ、駄目さ、野蛮さ・・・・・・そういった敬愛すべきユニークネスを侮蔑する者たちをこそ、宮沢さんは笑っていたのだと思います。
宮沢さんは、センスのいい人たち(どちらかと言えば「頭のいい」人たち)に支持された笑いの表現者でしたが、冷笑系の人ではありませんでした。
よく笑う人でした。いや、笑ってくれる人と言ってもいいくらいに、笑うことでまわりに元気をふるまう人でした。それはポジティヴな笑いで、宮沢さんの笑い声に救われた思いをした人は数多くいるはずです。
くだらないものを笑う「高らかな笑い声」には肯定感がありましたし、ちょっと困惑した表情の「くぐもった笑い声」には人をいたわる優しさがにじみでていて・・・・・・宮沢さんが笑うとき、そこには愛情が感じられました。
サブカルチャーの「伝道師」。
宮沢さんのことをそう呼ぶこともできるでしょう。作家活動のほか、大学教授としても活躍された宮沢さんは、サブカルチャー論の「布教」につとめられていたからです。NHKのテレビやラジオの番組で、サブカルチャーについて「深掘り」する宮沢さんを見聞きし、宮沢さんを初めて知ったという人も多いはずです。
個人的な物言いになってしまうこと恐縮のかぎりですが、宮沢さんのサブカルチャー論や都市空間論を僕も一緒に考えてきました。大学の授業を書籍としてまとめるため相談を重ねてきましたが、刊行にまで至らせることできなかったのが悔やまれます。
宮沢さんがサブカルチャーに見出していたものはやはり、「かっこいい」ものでした。それはつまり、「圧倒的な個性」を称えるということです。
ばかばかしいもの、でたらめなもの、べらぼうなもの……それらが集団であるかのように現象すると(ムーブメントを起こすと)、ひと括りにされ、名前がつけられます。それは、ほとんどが蔑称というレッテル貼りです。そうすることで、世間一般はようやく安心を手に入れることができるからです。
でも宮沢さんは、世間から蔑ろにされた「かっこいい」ものたちに光をあて、その輝かしい魅惑を解きほぐすことに情熱を注がれました。文化の周縁へと追いやられ、短い言葉に圧縮されて歴史のなかに格納されてしまったものを「解凍」してゆく作業。
ビート世代をはじめ、孤独や絶望や逆境に打ちひしがれながらも、それでも新しい時代の表現を求めてやまない若者に、宮沢さんはエールを送り続けていたのだと言ってもいいでしょう。
宮沢さんが長年にわたり岸田國士戯曲賞の選考委員をつとめられ、新人の発掘に情熱を雫(したた)れさせ、超弩級の選評を書いてくださっていたことが、その何よりの証(あかし)です。
宮沢さん、ありがとうございました。
サブカルチャーの魅力を伝える使命を果たされ、おつかれさまでした。
どうか、ひきつづき「牛への道」で安らかな夢を。おしあわせに。
あれは、まだケータイ電話の普及していない1993年のこと。たぶん、山の上ホテルの公衆電話からだったはずです。宮沢さんは、ご自身の岸田國士戯曲賞受賞作品『ヒネミ』の新版のあとがきの最後を、こう締め括っています。
賞をいただいたとき、選考の直後、和久田君がすぐに電話をくれた。「決まりました」と彼は言った。私はその意味がわからず、「ああ、そうですか」と答えた。それから彼は、あなたに決まったんですよという意味をこめ、「決まったんですよ」と繰り返した。あのときの声を私はまだ覚えている。
(宮沢章夫『ヒネミ[新版]』、1996年、白水社、153頁)
面白いことを思いついてしまったときの、口元を手のひらで隠しつつ話す、恥じらいまじりの照れたようなしぐさ。あの手ぶりは、もう見ることかなわないのですね。
それでも。
記憶のなかでなら、いつでも再生できます。そのつど、こちらからも笑顔を倍返しできるよう生きていかなければ、と思っています。語頭に強くアクセントがおかれ、「ダッ・タ・タン」といった感じで響く三音節 ── 宮沢さんに「和久田君」と呼びかけられるときの声を僕はいつまでも覚えていたいです。
(編集者)