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いよいよ芸術監督プログラムが始動! 藤間勘十郎さんに聞く
春秋座、そして新翔 春秋会への想い

2023年11月、春秋座の新芸術監督に就任した日本舞踊宗家藤間流八世宗家・藤間勘十郎さん。ご自分の舞台だけでなく歌舞伎若手俳優の育成、そして苫舟 (とまぶね) の名で脚本、作曲、演出とマルチに活躍されています。2024年9月からは、いよいよ芸術監督プログラムが本格スタート。また、市川團子の研鑽の場となる第一回「新翔春秋会」では、共に舞台に立たれます。公演に先立ち、春秋座への想い、舞台への想いについて、お話をうかがいました。

 

三代目市川猿之助の想いが詰まっている劇場

― 勘十郎さんは芸術監督に就任される以前も多数、春秋座にご出演されていますが、春秋座への想いや縁について、お聞かせください。

勘十郎 この劇場が完成した時、春秋座の初代芸術監督を務められた三代目(三代目市川猿之助)や祖母の藤間紫などから宙乗りにセリやスッポン、花道と全て揃っている劇場ができたという話を聞かされておりました。南座や歌舞伎座以外で、そういった機構が揃っていることは珍しいですからね。大変、素晴らしい劇場ができたんだなと思っておりました。
そしてその春秋座で、東京以外で初めて自分の公演を行うことができたんです。

― 2016年2月に行いました「藤間勘十郎春秋座花形舞踊公演」ですね。

勘十郎 はい。三代目の想いが詰まったこの劇場でさせていただけるのが嬉しくて、三代目に負けないように全演目に出演すると決めて、昼夜全7番(演目)、全8役をやりました。
というのも、かつて三代目がなさっていた春秋会では、10番ぐらい演目があったそうなのですが、三代目は全てお踊りになっていたんです。しかも最初から最後まで大役ばかりだったそうです。そのチラシを見て「負けないぞ!」と。そういう想いでやりました。
今でもこの劇場空間には三代目の想いが詰まっていると思いますし、私たちやその下の世代の人間もこの劇場でできることが沢山あります。また、三代目からも「やっていいよ」と言われてるような気がしますので、三代目に負けないようにやりたいという気持ちでおります。

— ありがとうございます。この劇場には「実験と冒険」というテーマがあるのですが、春秋座から古典芸能を発信していくにあたっては、どのような考えをお持ちでしょう。

勘十郎 そうですね。私は常に「なぜ?」「なぜこうなってるんだろう?」「この踊りは何でできたんだろう」と気にする子供だったんですね。そして「どうやらこんな芝居があったらしい」と知ると「それはどんな芝居だったんだろう。やってみて、つまらないと思うかもしれないけど、やってみたい!」とやらなくては気が済まなくなるんです。だからやりたいことが山のようにあるんですね。多分、そういうところは三代目に似てるかもしれないですね。三代目もそういう気持ちでいろんな舞台を復活なさりましたよね。私の祖父(六世藤間勘十郎)も決して古いものだけを守ろうとする人ではなく、きちっとしたものを守りながらも、常に何か新しいものも求める人だったんですね。ですから、こうしなくてはいけないと決まっているものでも「今、そんなことしたってお客さんは面白くないから、こうしなさい」「どんどん新しいことをおやんなさい」と変えていく。ゆえに一時、壊し屋と言われていたぐらいで、自分でも「私は壊し屋だってみんなから言われている」と自覚しておりました(笑)。ですから祖父も意外と「実験と冒険」の精神があったのではないかなと思っています。
※三代目市川猿之助は、様々な作品を復活させるだけでなく、新作歌舞伎も多数制作。それら「復活通し狂言十八番」「猿之助新演出十集」「華果十曲」「新作・スーパー歌舞伎十番」の計48作品をまとめ、2010年に『猿之助四十八撰』を制定しました。

— その、おじい様の六世藤間勘十郎さんと三代目はコンビを組み、様々な名作を世に生み出したんですね。

勘十郎 恐らく祖父が若い時、自分が考えるアイディアを実現してくれる格好の人が三代目だったのではないかと思います。きっと三代目が「こういうものをやってみたいです」というと祖父が「やってみななさい」と言い、三代目が「これ、どうですか」と言うと祖父が「もっとこうしたら? こうやってみよう」という具合にしていたんじゃないかなと思うんです。

— 伝統芸能、古典芸能というのは決して守るだけのものではなく、新たに作っていく、創造する一面もあるわけですね。

勘十郎 そうなんです。大体、舞踊の『藤娘』は、さも何百年前にできた作品のような感じがしますが、実は昭和になって祖父が考えた新しい作品ですからね。曲ですら昭和にできたものなのです。ですから古典と思っているものが、実は新しい作品だったりするわけですね。
ですが、何か真ん中に一本、精神が通っていればいいのだと考えています。だから、どんどん作って、そして残していくことが大切だと思っています。

 

心を大切にしたい

― 勘十郎さんは古典芸能を担う一方で、現代演劇やコンテンポラリーダンスなどの舞台に参加されたり、作品を作ったりしておられますよね。ご自身の中で、それらの舞台芸術の違いはどのように感じておられますか。

勘十郎 私は割とそういう現代系のお仕事が多いんです。コンテンポラリーダンスの振り付けをしたり、作曲や音楽監修、演出をさせてもらったりすることもあります。また、ドレスを着て演じるようなお芝居を作ることもありますし、歌ものもやったこともありますが、それらを作るのはとても面白かったんです。ですから、そういうものも春秋座でやりたいなと思っています。
でも、古典芸能以外の方々は古典に対するリスペクトや敬意がすごくおありになるんですよね。「なんだ、日本のものか」なんて思っておられない。私たち古典に携わる者の方がよっぽど「日本のものなんて」と思ってるのかもしれないですね。
昔、バレエダンサーのシルヴィ・ギエムさんが家に遊びに来たことがありまして、私はあの方が体操出身ということを知らずに「祖父・六世勘十郎からの教えのひとつとして、心(思い、心情)を身体に乗せることを大切にしてます。ですから私は身体表現のシンという字は ‶心″ と書くと考えるが、あなたはそれについてどう思うか」と聞いたことがあったんです。どちらかというと彼女は身体美を魅せる方ですよね。でも、私の問いにしばし考えて「私はあなたと同じ考えだ」と言ってくださったことがあったんです。
その時に、やはりどの世界でも求めるものは同じなんだなと思いました。ですからバレエもコンテンポラリーダンスも一般演劇も求めるところは同じではないかなと思うんです。

— 心ということですか。

勘十郎 そうですね。「心情を表現する」ということでは同じなのではないかなと思っています。

 

物を作ることの楽しさを学生と共有したい

― この大学には、いろいろな事を学んでる学生がいまして、舞台芸術学科もあり現代演劇やダンス、古典芸能を勉強してる学生がいます。そういった学生たちとの関わりに関して何かお考えはありますか。

勘十郎 やはり春秋座は大学があっての劇場という認識でおります。ですから芸術監督の話もそういう意識でお受けしました。
まず、物を作ることの楽しさを学生と共有したいのが一番にあります。私は20歳の時に初めて振り付けをさせてもらい、物を作ることの楽しさを覚えてしまったんです。例えば自分の描いた絵の前で歌舞伎役者が踊ってくれる、自分の書いた絵がこういう風に出てくるんだとか、自分の書いた脚本をこのメンバーでやってくれるんだとか、そういう楽しさを覚えちゃうと、たまらないんですよ。やめられないんですね。そういう楽しさを学生と共有したいですね。
それから私は舞台を作る仕事もしているという意味では後継者育成も考えています。特に裏方の仕事というのは光が当たらないから、やりたがる人がいないですし、大体、そういった仕事があるかどうかも知られていないですからね。つまり歌舞伎において振付師や演出家、舞台美術家がいるのかは知られていない。でも実際はいるんですよね。しかし人数はすごく少ない。それもみんな私と同年代で、下を見ると後継者がいないんですよ。ですから今、仕事をする時はなるべく20代の人たちに焦点を当てて一緒に仕事をしています。自分と共にこの世からいなくなる人間ではなくて、自分がいなくなってもやっていける人たちを育てることに重きを置いていきたいなと思っているんです。
ですから歌舞伎の演出をしたい学生がいたら、その方たちと一緒に勉強をしていきたいと思いますし、舞台美術を作りたい方がいたら、その方たちとも勉強していきたいとも思います。そうやってみんなと一緒に何かものを作ることができたらいいなというのは、芸術監督になった時から考えています。

 

市川團子さんと共に行う「新翔 春秋会」について

― 9月に行う「新翔 春秋会」は、市川團子さんの研鑽の場として立ち上がった会ですが、勘十郎さんからご覧になって、今の市川團子さんの印象はいかがですか。

勘十郎 不思議な子ですね。つい、手をかけたくなっちゃう子なんですよ。そこにいるとなんとなく「大丈夫?」って声をかけたくなりますし、相手も「はい」と言うだけなんですが、これだけの会話でもしたくなっちゃうような、ちょっと気になってしまう存在ですね。
もちろん気になる存在ということは、良いところも悪いところも気になるわけですが、今、彼は一生懸命いろんなものを学ぼうとしている。つまり自分の中の土壌となるものを作ろうとしてるわけですから、それを助けてあげたいという気持ちが私の中にとてもあります。
もちろん團子を特別扱いしてるわけじゃなくて、ダメな時は「なんなんだ、あれは」と正直に言いますし、みんなと同じように扱っているけども、その中でもやはり気になっちゃう。「ちゃんとやってるかな」「まあまあ、これだったらいいんじゃないか」とか、つい目がいっちゃうんですよね。
皆には「あなたは團子に甘いから」って言われるんですが(笑)、厳しく言う人が100人いるんだったら、101人目は甘くてもいいんじゃないかなと思っています。私たちもそうでしたが、やっぱり一番甘くしてくれた人に言われる一言って大きいんですよね。いつも怒る人の話って聞かなくなっちゃう。すごく優しい先生、先輩に「あなたね、あれ、良くなかったよ」と言われたら、グサッとくるんですよ。だから「どこが良くなかったんですか」と聞くんです。そうすると「ここがこうだから良くなかった」と教えてくださるので「あぁ、そういうことだったのか」って素直に思うじゃないですか。
いつも「お前はダメだ、お前なんかダメだ」と言われていたら、注意を受けても「うるせえな」と思うだけですからね。そういう意味では他の若い子たちにも基本的にはあんまり怒らずに、したいことをさせてあげて、良い時は良いと言う。でもダメな時はダメと言ってあげられる、そういう立場でありたいと思ってはいるんですね。

― 今回の演目は『義経千本桜』の中から「吉野山」、それから『春興鏡獅子』ですが、それぞれの演目のポイントや今、團子さんがチャレンジする意味について教えていただけますか。

勘十郎 まず「吉野山」に関して言えば、一番のポイントは素踊りということです。彼は一度、この舞踊を衣装をつけて踊っているのですが、その時に、いかに役の性根を理解して踊っていたかが今度の舞台で分かるわけです。私は今回、静御前として一緒に踊るにあたり、それを楽しみにしてます。性根が分かっていないと、素踊りであろうが衣装をつけていようが関係ありませんからね。そういう意味では狐忠信の性根がきちっと理解できてるかどうかが、この作品の一番の見どころだと思います。
この作品は何も考えずに踊ると、長くてとてもつまらない作品になるんですよ。けれど役の性根を分かって踊ると、すごく楽しい作品になります。例えば、忠信と静御前の目がちょっと合ったり、あえて合わせなかったり、静御前より一歩下がる、一歩前に出る、離れるか、近寄るか。そのちょっとしたことに深い意味があるんですね。つまり静御前から離れて控えていると敬っていることを表しますし、鼓のそばに近づきたいけど近づけない、でも我慢できなくなってしまう。そんな風に二人の位置関係も面白く作られています。そして静御前と二人で軍物語(いくさものがたり)を語りながら世の無情を泣いたりするところもいいなと思うんですよね。そういったところも楽しんで見てもらえると嬉しいですね。
『義経千本桜』というお芝居は大体の人が死ぬんですよ。人が死んだり、死んだ人が生き返ったりする中で、この「吉野山」は一番、ファンタジーで華やかさがありますからね。そこも見ていただければ私はすごくありがたいと思っております。

また、『春興鏡獅子』は、いわば登竜門ですね。できるかどうかということよりも歌舞伎役者である以上は、一回は挑戦しなければならないと思われている作品です。自分の軽さを知り、「なんで僕はこんなに踊れないんだ」「なんでこんなに体力がないんだ」ということを知り、その上で、「くそー!」と思いながらやる。私も高校生でやった時は、そうでした。
はっきり言ってストーリーは無くて、小姓の弥生が出てきて踊り、そこに獅子が乗り移るだけなんです。それを1時間見せるので、こんなに大変で難しいことはないです。ですが逆に言うと、いかに研鑽を積んだか見せる踊りなわけです。
そして『春興鏡獅子』を踊るということは、お客様も「この人は歌舞伎役者として頑張るんだな」と思われるんですよね。そういう意味では今の彼に一番、あっていると思っています。もちろん作品を選ぶ時に『道成寺』など色々と出ましたけれど、ことに彼は女形がやりたいという話もあったから、だったらこれはひとつ、やってもよいのではないかなとなりました。
それにね、この作品は、おじい様(三代目)が所作台を踏んで割っちゃったとかね、いろんな逸話が残ってるぐらいですからね(笑)。

― そうなんですか?!

勘十郎 そうなんです(笑)。
そして『春興鏡獅子』は役者さん、それぞれ自分のやり方があるんですね。ですからまず團子ちゃんには基本をきちっと覚えてもらい、いずれ歌舞伎の本公演でやる時に自分なりのやり方を考えられたらいいなと思います。これは本当に挑む作品ですね。
「見せます!」じゃなくて、「挑む」。いや、「挑む姿を見ていただく」という感じですね。だから多分、お客様はすごくお疲れになると思います(笑)。舞台を観て「楽しかった~」というより、「あぁ~疲れた」って(笑)。でも最初の会としては、それが一番良いと思ってるんですよ。「頑張ってる姿が良かった」と感動していただけたらと思います。
そして、いつかはそれが三代目が江戸時代の儒学者 細井平洲の言葉を借りておっしゃる「泣き申さず候ては化し申さず候」という、感動を届けるということに通じていくのだと思います。
※ 泣き申さず候ては化し申さず候=人は涙を流すほど感動した時、素直になり、向上心が芽生え、成長するという意。

 

いよいよ本格始動

― 9月以降の芸術監督としての展開についても、お伺いできますか。

勘十郎 せっかく自分が芸術監督をさせていただくようになりましたので、歌舞伎もさることながら、やっぱり日本舞踊を皆さんに観ていただきたいという気持ちがあります。ですが、今の日本舞踊には面白さが、ちょびっと足らないと思っていたりするので、そういう意味では面白い日本舞踊、こういう日本舞踊もあるんだなというのも見ていただきたいと思い、今年の12月に公演を考えております。
自分が「なぜ?」と思う子供だったので分かるのですが、恐らく、多くの方は日本舞踊にしても、歌舞伎にしても、他の芸能にしても「なんでこんな風になってるのか」「なんでこの踊りはこういう表現をするのだろうか」とお思いになると思うんですね。でも、「この時は、こういうことだから、こういう表現をするんだ」ということが分かると、なるほどと思って観ていただけるんじゃないかと思うんですよ。
ですから春秋座から発信する時は面白いものであることはさることながら、お客さんが「なぜ?」と思わないものにしたいですね。もし思われるようなら、それに対する講座をするとか、例えば短い踊りの後に長いお芝居が付くのが決まりの作品の場合、先にお芝居を上演してみる。そうすることで作品の意味が分かってくることもあると思うんです。そんな風に少し実験的なこともしていきたいなと思います。
それから先程も申しましたが、学生さんたちと一緒に何かをしたいという思いが強いですね。学生さんたちが自分の頭の中だけで考えているものを表に出してあげるというのかな、考えているものを具体化させてあげることができたらなと思っておりますし、ゆくゆくは学生さんの書いた脚本、演出、舞台装置で新作歌舞伎または新作舞踊を作るのが私のひとつの目標です。公演だけでなく色々なことをやっていけたらと思っています。

― ありがとうございます。ぜひ、ひとつずつ実現していけたらと思いますので、今後ともよろしくお願いします。