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空間と演出で紡ぐ―春秋座の『二人静』


2009年度に渡邊守章氏(当時・舞台芸術研究センター所長)の企画・監修により始まった「春秋座―能と狂言」。 この公演の面白さのひとつに迫り( せり )やスッポン、 照明設備がある現在の歌舞伎劇場で、 花道を橋掛に見立てて上演するということがあります。 通常の能では花道やスッポンの使用や舞台照明の演出がないため、 「春秋座―能と狂言」は事前の打ち合わせが必要。そこで今回は、演出とシテをつとめられる観世銕之丞さんと舞台監督の小坂部恵次さん、照明デザインの藤原康弘さんによる打ち合わせの現場をのぞかせていただきました。
写真 2022年度「春秋座―能と狂言」より 能 『隅田川』(2023年 春秋座)撮影:井上 嘉和

16回目を数える2024年度は狂言『 宗論 』、 能『 二人静 立出之一声 』を上演します。
詳細はこちら➡ https://k-pac.org/events/12245

 

憑依することで伝承される芸

写真右より舞台監督の小坂部恵次さん、シテ方観世銕之丞さん、照明デザインの藤原康弘さん
 

銕之丞 今まで春秋座でやってきたものは渡邊先生のご意向もあって、  能として完成度の高い曲を上演する。 そして、 なるべく春秋座という歌舞伎小屋だからこそ面白く映る曲を上演したいということがありました。 それは監修が天野文雄先生 (大阪大学名誉教授) に変わってからも同じ方針です。今回は今までと少し違うタイプの曲をということと、 『 二人静 』 はちょうど正月七日のお話なので、 旧正月の2月に上演するのに良い曲目だと、 天野先生とご相談して決めました。

『 二人静 』 という曲は少し変わっていまして、 先ほど申しましたことに反し、 実は能としての完成度はそんなに高い方ではないんです。 そして憑依ものではありますが、 いわゆる憑依ものとしての面白さとは違う、他に似た曲がない特殊なニュアンスの曲ですね。
見どころは、 菜摘女 (なつみおんな) と静御前がシンクロする 相舞  (あいまい=2人以上で同じ舞を同時に舞う) です。  2人の手の角度をぴったりと揃え、 この文句の時に四足出て二足引くなどと細かく決めて舞うので、 演者の立場から言うととても窮屈で演技どころではないわけです(笑)。 角度を間違えないように、数を間違えないようにやるだけで終わってしまう。 それで気が付いたら 「あれ? 終わっちゃった」 と感じることが多いんですね。 それに面(おもて)を付けてしまうと横が見えませんので、 合わせることがとても難しい。 ですから何回も何度も繰り返し稽古をして合わせていきます。

大体は背格好が似た同士や同世代で演じることが多いですね。 ただ、 若い人にとっては自分のペースだけで舞わず、 どういうところを相手と合わせたらいいのか、 どこを丁寧にやったらいいのかを考える勉強になりますので、 師匠格の人と演じて、芸やタイミングを盗み取ったりします。 私も最初は親父  (八世銕之丞)  とやりました。それまで親父がどのタイミングで左右、 打込 (うちこみ=型の名前) をやっているかは何となく分かっていましたが、 一緒にやってみると、 「 こういう角度で、こんな風にしていたのか 」「 この足を詰める時は手も動かしてるんだ 」「 こうやって足を繋いでるのか 」などと具体的に勉強することができました。 ですから 『 二人静 』 という曲は、芸の伝承に憑依が重なっていくところがあります。 そういう意味でもちょっと不思議な曲なのですね。

 

効果的に舞台装置を使う

銕之丞 そして今回は、 「 立出之一声 (たちいでのいっせい)  」  という 小書 (特殊演出) で行います。これは江戸中後期に活躍した 観世元章   (もとあきら)   が作ったものですが、この方は本を何度も読み直して演出を作る方なんです。そして省けるところは少し省くようなこともされています。
『 二人静 』 も通常ですと、 まず勝手宮神主  [ ワキ ]  が登場して名乗り、 下人であるアイ (前半に登場する場合は、あらすじなどを語ったりする人物) を呼び出して、さらに 「  菜摘女  [ ツレ ]  を呼んでこい  」 と行かせるわけですが、 これが煩雑だということでアイを省いた演出にされました。

〈MEMO〉
今回の演出は今から30年ほど前に当時六之丞だった梅若桜雪  (うめわかろうせつ)  氏が演じはじめ、 その後、銕仙会でいろいろと試みられてきたものをベースにしています。


能舞台の構造

 

ですから菜摘女が出てくるやり方はいくつかあるのですが、今回は先に菜摘女が橋掛 (はしがかり) から出て地謡座 (じうたいざ) 前辺りに座っていることにしようと思います。そこに神主が出てきて常座 (じょうざ) で名乗り、 「 いかに女、 菜摘川のほとりに出て、 若菜を摘み、 とうとう帰り候へ 」  と若菜を摘んできなさいと言う。菜摘女の 「 得申し候 」 というウケの後、囃子の手があり、菜摘女は花籠を後見から渡されます。
その頃、花道の幕が開いて里女 [ シテ ] が花道から静かにやってきます。立ち止まるのは2階席の廂 (ひさし) より舞台寄りでないとダメですね。

花道を橋掛として登場する様子 
2023年度「春秋座―能と狂言」より能 『卒都婆小町 一度之次第』 (2024年 春秋座)撮影:井上嘉和

 

小坂部 お客様から見えないので三ノ松より少し舞台寄りがいいですね。

銕之丞 はい。 お客様から見えないところから、 だんだん見えるところへ出ていきます。 花道の廂の外へまで歩いて行き、 菜摘女に 「 なうなう 」 と呼びかけます。 そして吉野へ帰るのなら自分のことを社家や吉野の人に弔ってくれるように伝言してほしいと言いながら、七三 (花道の舞台から三分、揚幕から七分の辺り) まで行き、 構えます。そのうえで 「 もし、 このことを疑う人がいれば、 その時はあなたに憑いて私が名乗ります 」 と言って消えてしまうわけですね。
その消え方をどうするかですね。通常の演出ですと地の  〽夕風まよふあだ雲の  という謡の間に幕に入るのですが、花道は長いので入りきれないかもしれないですね。

小坂部 前シテ [ 里女 ] の間は本舞台には入らずに中入りするわけですね。

銕之丞 そういうことになります。 もしかしたらどこかで謡を止めて、 笛のあしらいだけにして空気を持続したまま幕に入っていくと思います。

小坂部 これは囃方との相談が必要ですね。

 

空気が変わる瞬間

銕之丞 菜摘女は 「なんて恐ろしいことだ。嫌なものを見てしまったのだ 」 と神社へ帰ります。 すると神主は 「 なんでこんなに遅かったのか。 他の人はみんな早くに帰ってきたのに 」 と言う。それに対して 「 実は菜摘川のほとりで不思議な女性に会ったのだが、 その女性が自分を弔ってほしいと言っている。 それでもしも周りの人が疑うようであれば、 私に憑いて名乗ると言っていた。 そんなことを私は信じないけれども、 ―まことしからず候ふほどに、申さじとは思へども ( どうも本当らしくないので、伝えまいと思ったのですが ) ― 」 と言ったとたん、 先ほどの女の霊が憑依し、 いきなり人格が変わってしまうんです。 そこで空気が変わるわけです。ここが菜摘女の演じどころだと思います。

小坂部 ここから神主と霊が憑依した菜摘女との掛け合いになるわけですね。

銕之丞 神主と話をしてる間に、 自分は静御前の霊だと名乗ります。 そこで神主が 「 本当に静御前ならば舞を舞ってみせてください 」 と言う。女 ( 菜摘女 ) は自分の装束は勝手宮の神前に納めてあるから、 それを出してほしいと言い、 神主が宝蔵を開けるとその通りの舞装束があったわけです。 それを女 ( 菜摘女 ) に渡し 「 これを纏って舞いなさい 」 と言う。 それが供養になるだろうということなんですね。

小坂部 ここは 物着 (ものぎ=舞台上で演者の扮装を変えること) ですね。

銕之丞 はい。 舞台中央で金の静烏帽子  (しずかえぼし)長絹  (ちょうけん=袖の長い装束) を着け、 白拍子の格好になります。
神主が 「 静御前の舞をおん舞ひあるぞ、みなみな寄りてご覧候へ  ( 御前が舞われるぞ、みなみな集まって、見物なされよ ) 」 と言った後、女 ( 菜摘女 ) が 〽いまみ吉野の川の名の と謡うと、 〽菜摘の女と、思ふなよ  と静御前の霊が登場します。

小坂部  その後、 菜摘女と静御前のサシ  ( 能の一曲を構成する小段の名称の一つ )  になるわけですね。

銕之丞 〽さても義経凶徒に准ぜられ のところですね。 その後、 地の 〽とがありけるかと、 身を恨むるばかりなり という下歌  (さげうた)  が終わったら舞台中に移動し、 地謡のクセ、 〽さるほどに、 次第次第に道狭き このぐらいで本舞台に到着したいと思います。 ただ春秋座は能舞台より花道から本舞台までの距離が長いので、 間に合うかですね。

藤    原 花道を使うのは銕之丞さんだけですか。

銕之丞 そういうことです。 単純に言えば、 花道側が霊界で、 本舞台側が現世界ですね。 照明を加えるとすれば、 里女と菜摘女との掛け合いのところや菜摘女が憑依するところで少しだけ雰囲気を変えるか。 もしくは能だからそういうことはあまりしない方が良いという考え方もありますし…。

 

光と影

藤 原 物語の話になりますが、 なぜ、 静御前は最初から名乗らなかったんだろうと考えていました。 名乗らずに供養してくれと言い、 けれど信じなかったらお前に憑くよと。 それなら、 なぜ最初から名乗らないのだろうかと。
史実とは違うと思いますし、 私が読み違えている可能性もあるのですが、 静御前が生きていて、   〽しづやしづ  を頼朝の前で舞う時、 まだ頼朝側に静御前とはバレていないんですよね。 ここで静御前と名乗ったら自分もお腹の子も殺される。 けれども九郎判官の妻として覚悟の上で名乗った。 その結果、 悲惨なことになってしまった。 だから名乗ることに対する恐怖があり、 けれど供養をしてほしいという強い願いがあったのではないかなと思いました。
さらに毎年、 正月には女たちが若菜を摘みに来ていたのに、 その年、 潮が満ちることがあって菜摘女に憑依した。 この女なら供養を叶えてくえると期待したのに、 なんというか、 裏切られたという想いがあったのではないかと。

銕之丞 それまで菜摘女は女 ( 静御前の霊 )のことを他人事として言ってたのが、 急に自分事になって、 そこからは完全に自分は静御前になっちゃうわけですね。 その変わるところがよく強調されているなという印象を受けますね。
実は静御前の霊というのは、 お客様へ、 その存在を説明するような役割があるんです。 本当は見えていないんです。 けれども菜摘女を操ってるのは静御前なわけです。 今ならCGでやっちゃえば、なんでもないことなんですけれどね(笑)。

藤 原 『 二人静 』 では本人の霊と憑依された人が一緒に舞うわけですよね。 静御前にとって最後の舞が頼朝の前で、 それがあのようなことになってしまったという悔しさがあると思います。 けれど舞うことに対する喜びもあるんだろうなと。 舞に対してむしろ深い恨みを抱いているような感じと舞う喜び。 すごく気持ちが引き裂かれていると考えると、 本人が二人出てきて一緒に舞うことは、 すごく納得できるなと思いました。 二人が光と影になっている。 今のところ照明もそこを引き立てて行くのがいいのかなと考えたりしています。

銕之丞 謡では  〽それのみならず憂かりしは、 頼朝に召し出だされ、 静は舞の上手なり とありますから、 今おっしゃられたような形でも納得できると思います。
僕にもそういった思いがあるんです。 憑依するというのは、単に物憑きとか神がかりだというのもありますが、 憑かれた方が、 本音が出る。 本人が言うんじゃなくて、 他人から言わされた方が本音が出やすいという日本人の感情表現があったりするのかもしれません。 ですから憑依された菜摘女に神主に色々と問いかける時、 お客さんもそれを観ながら、 憑依しているのは誰なのだろうかと謎解きをするんじゃないかなと。

藤 原 不思議なものが出てきて、謎解きがあり、 だんだん誰か分かってくるというエンタメ的なストーリーの起伏だけではない 「 鮮烈な想い 」 のようなものが、 陰影としてどわっと出てくるような、 そういうような形にできればなというように思っております。

銕之丞 最後、  〽武士 のところで調子が変わり、 静御前が舞台から離れていく間、 少し現実に戻すようなやり方があるのかなと思います。

藤 原 なるほど。 観ているお客さんの感覚としては現実に戻ってくるのか。 それとも霊が消えていくという感じなのでしょうか。

銕之丞 霊が消えていくという感じですね。 後に菜摘女が狂ったように舞っているけれど、 もうすぐ冷めるなということがだんだん分かる感じ。祭 りが終わって、 夜が明けていくみたいな感じでしょうか。

藤 原 そうですね。 いろんな思いが過ぎ去っていっても、 元の通りの人たちが…。

銕之丞 元の生活をしているという感じですね。

小坂部 照明に関しては、 こちらの判断とさせていただいて、よろしいですね。

銕之丞 はい。 実験してみていただいて。

小坂部 とはいえ、 やりすぎないことが基本だと思うんですよね。

藤 原 そうですね。

銕之丞 それでは、 よろしくお願いします。

小坂部 よろしくお願いします。