渡辺保(わたなべ・たもつ)演劇評論家
渡邊守章(わたなべ・もりあき)演出家、フランス文学研究者
進行:天野文雄(あまの・ふみお)能楽研究者
―― 今日は「伝統演劇はどこに向かっているのか」ということで、お話をしていただきます。『舞台芸術』の20号は記念号で、全体のテーマとして2020年以後の舞台芸術を考えています。2020年は東京オリンピック・パラリンピック開催の年ですが、それ以後の舞台芸術、とくに伝統演劇について考えてみようという企画です。
今日は奇しくもお二人のワタナベ先生にお出ましをいただきまして、お話をうかがいます。渡辺保先生はご紹介するまでもなく、歌舞伎を中心にした伝統演劇の批評の第一人者で、たくさんの著書がおありです。現代演劇についてもたいへん造詣が深い方です。
渡邊守章先生は、ご専門はフランスの演劇、文学、思想と幅が広いのですが、あわせて現代演劇の演出家でもいらっしゃる。伝統演劇についても造詣が深く、歌舞伎だけではなく、文楽も、能・狂言にもわたっていらっしゃる。
私が進行役を務めさせていただきますが、私は能を専門にしていて、能以外のことはあまり知らない人間でして、歌舞伎や文楽についてはお二人の間でご自由にお話しいただき、また、能と共通する問題もあると思いますので、私からも質問する形で進めていきたいと考えています。「伝統演劇はどこに向かっているのか」というテーマで、将来こうあるべきだ、あるいは本来はこうあるべきだという方向でのお話をぜひうかがいたいと思っています。
能狂言、文楽、歌舞伎、全部家族ぐるみ
―― はじめにお二人からそれぞれ、伝統演劇に接したきっかけをお話しいただきたいと思います。一口に伝統演劇といっても、歌舞伎、文楽、能・狂言と多岐にわたっていて、これをじっくりうかがったらそれだけでも時間がなくなってしまいますので、できれば簡潔にお願いします。まず、保先生からよろしくお願いします。
保 私は1936年生まれですから、終戦のときに10歳でした。 戦前に知っていたのは歌舞伎だけです。六代目菊五郎を歌舞伎座で見ました。戦争で焼ける前の歌舞伎座で。それが歌舞伎に触れた最初ですね。能は、戦後すぐに最初の五流能というのを神田共立講堂で見まして、のちに表章先生と対談する機会があって、それじゃ俺と同じじゃないかとおっしゃっていました。
そのとき非常に印象に残っているのは、梅若万三郎と梅若実が久しく顔を合わせなかったのに、『蝉丸』で一緒になるというので期待していたのですが、京都へ疎開している万三郎が交通事情で間に合わなかった。だから私は万三郎を知らないんです。そのすぐ後に亡くなりましたから。実の方は、よく見ましたが。
それから文楽は、最初は有楽座で山城少掾、吉田文五郎、竹本大隅太夫という顔ぶれで、『熊谷陣屋』と『忠臣蔵』の七段目と八段目を見ました。その後、大阪に行くチャンスがありまして、戦後の焼け跡の大阪の四ツ橋文楽座で津大夫が浜大夫という名前から襲名したのですが、同じ『忠臣蔵』の七段も見ました。それからその後、東京で、旧帝劇で山城を聴いたのですが、このときに山城が鶴澤清六と別れるわけですね。文楽はそういう体験でした。
―― 歌舞伎は、もっと早くから接しておられたのですか。
保 戦前の歌舞伎座で見た六代目菊五郎、6歳ぐらいからです。
―― そのへんのきっかけももう少しお願いできますか。もちろん家庭環境があったと思いますが。
保 能・狂言、文楽、歌舞伎みんなこれ、全部家族ぐるみです。一人で行ったものは一つもありませんね。もっともその時代は、学校では一人で劇場へ入ることは禁じられていたし、中学までは一人で行くことはできなかったので、家族で行っていました。印象に残っている舞台や役者は数限りなくあります。
能・狂言に関して言うと、父親が鉄道省に勤めていて、同僚の謡の会がありました。日曜日の朝にNHKラジオで謡曲の時間があって、なんだか知らないけど日曜日の朝になると、その唸る声が聞こえていたという体験ですね(笑)。はなはだ庶民的な体験で。
能を自分から進んで見るようになるのはずいぶん後で、お話に出た万三郎は見ていない。だけど梅若実という人は、私がフランスに留学するのが1956年なのですが、フランスへ行く前に『弱法師』と『卒都婆小町』を見たのかな。それから帰ってきて、また『弱法師』を見ました。つまり、梅若実の『弱法師』をある時間をおいて、しかもある経験をした後で二度見ているというのが、私の能体験としてはかなり特別だと思います。
それから以後、能を意識的に見はじめるのは、観世三兄弟の「華の会」から後です。それで寿夫さんとのつき合いができるのですが、あちらは梅若流が嫌いですから、そういう話ができないという、フラストレーションがあったことを覚えています。
文楽に関しては、保先生と同じで、有楽座の、それも戦後最初の文楽座の巡業で山城少掾という人も聴きました。山城も明治元年生まれの祖母が大のファンですから、――「古靱(こうつぼ)」と呼んでいましたが ―― そのレコードもうちにはあって、よく聴かされていた。ただし、戦後の庶民は食う物がなく住む所もあるかないかだったわけですから、大阪まで見にいくことはもちろん考えられなくて、大阪に文楽を見にいくのはずいぶんと後です。
それから、家族の中でそれぞれご贔屓の役者がいました。うちの父には3人の姉、私にとっての伯母がいて、その伯母がそれぞれご贔屓をもっている。明治元年生まれの祖母も、母ももっている。明治元年生まれの祖母はどういうわけだか、七代目宗十郎が好きでした。「あの押し潰したような声のどこがいいのかね」とみんなに言われながら。
私が見た最初の『助六』は、助六が六代目で、鬚の意休が幸四郎、揚巻(あげまき)が宗十郎でした。とにかく宗十郎という人は、世にも不思議な押し潰した声を出す人であるし、しわだらけの顔にべったりおしろいを塗ったような、世にも不思議なものでありましたけれど、宗十郎はたしか例の『大忠臣蔵』のときはお石をやっていましたね。
保 お石と一文字屋のお才。私は見られなかったけれど、昼の部では顔世です。
守章 それはとても良かったと思っていました。ですから、宗十郎に関しては、その最晩年を三島由紀夫がやたらと持ち上げていたことがありますが、宗十郎は三島由紀夫より俺の方が先に見ているぞという気になっていました。
狂言は、とにかく客が狂言を見ないというだけではなくて、間狂言になると一斉に出ていってしまいました。
保 普通の能の中の間狂言じゃなくて、狂言の演目になると出るのでは。
守章 いや、そうではなくて、間狂言で出ていってしまい、あれはショックでした。
―― それは、いつ頃のお話ですか。
守章 私が大学に入っていたと思うから、1951年より後ですね。
―― 私も1988年頃、関西に移ったばかりの頃ですが、京都の室町にあった金剛能楽堂で体験しています。
保 それは体験したことがないな。前に何かあって、それで狂言があるというときに人がいなくなるのはありましたが。
守章 いや、それはわかるんですよ。矢来や水道橋(能楽堂)でも、間狂言のときに客が出ていってしまう。あれはね、ショックでした。
先代の山本東次郎は、世にもつまらなそうな顔をして狂言をやるんです。小澤栄(小沢栄太郎)が不機嫌になったような。伝統芸能の不思議なところで、あんなやる気がないのなら、やめてもらいたい、と思っていたら、突然、最晩年は良くなった。
もう一つ、たぶん私の世代で能や歌舞伎を見たという演劇畑の人はそう多くはない。いることはいるのですが、新派を見たという人はほとんどいないのではないかと思います。うちは赤坂にあったので、母親は河合武雄の大ファンだった。河合は戦争中に死に、喜多村緑郎が復帰して、喜多村と花柳章太郎、大矢市次郎らの新生新派はよく見ました。そのへんは非常に矛盾していて、片方で新生新派を見ながら、こっちで千田是也の『近代俳優術』という、「新派的」を悪の代名詞みたいに説く教条的な本を一生懸命に読んでいたのですから。
読むことに関して言うと、同級生が中原中也、小林秀雄、立原道造だのにのぼせ上がっているときに、私にとってのバイブルは六代目の『芸』でした。具体的に自分のやることに役には立ちませんが、あの本は私にとってのバイブルでした。
武智鉄二の推薦に影響される
―― うかがっていると、お二人にはかなり重なる部分があるように思うのですが。
保 そうですね。六代目菊五郎の芸談では『芸』の前に出た『おどり』という芸談がおもしろかったですね。六代目の肉声がそのまま紙面にうかぶようでした。『芸』にはゴーストライターが書いたということが露骨にわかるところがあって、それは気になるところでした。でもまあ、六代目菊五郎は非常に優れた俳優でした。
守章 『おどり』ももちろん読みましたよ。でも『芸』のインパクトにはかなわなかった。読み方が違ったのでしょう。
保 おそらく戦前の人は、戸板康二という批評家が言っているように、西洋のものを見るのと同時に日本のものも見るという二重生活だった。そういう二重生活に耐えていかなければならないことを戸板康二は嘆いているのだけど、守章先生もそうだと思うけれど、僕らの時代は二重生活どころか三重、四重の生活をしていました。
守章 そうですね。
保 見る物、娯楽がないから。テレビはないし、映画は限られていて、手当たり次第に見ざるを得ないから、新派も見たし、いろいろなものを見ました。
守章 新劇は、しょっちゅうやっていたわけではないですね。
保 そうそう。僕は学生のときに武智鉄二さんの推薦するものに、かなり影響されています。武智鉄二さんが誰を推薦しているかというと、歌舞伎では圧倒的に六代目ですね。能だと金春八条かな、狂言で善竹弥五郎、踊りで井上八千代(四世)、浄瑠璃で山城少掾。新劇で言うと、田村秋子です。金春八条だけは知らない人ですが、あとは全部見ましたね。
―― 武智鉄二さんの影響、守章先生はいかがですか。
守章 やはり保先生のほうが、よほどご幼少のみぎりから知的なところにいらした。
保 そんなことはない(笑)。
―― 武智さんのちょうど全盛期ですか。
保 そうでもないです。東京生まれ、東京育ちだから、武智歌舞伎を実質的には知らない、見てもいない。ただ、武智鉄二さんの『蜀犬抄』『かりの翅』という二冊の本は、たいへんに貴重な本で、古本屋でもなかなか手に入れることができない。それを夢中になって読みました。その当時出されていた雑誌に、今でいうランキングが出ていて、武智さんが良いというものだったら一生懸命に見ようと思った。昭和20年代に新橋演舞場へきた井上八千代を最初に見たときは、松本佐多も見たけれど、学生には見てもわからないです。それでも一生懸命、これがいいものだと思って見て、だんだんわかるようになるのだけれど、それは武智さんのリストのお陰ですね。
ある意味で言うと、この人たちは、全員近代人なんですよ。武智鉄二さんも含めて、リストアップされたのは近代の名人なんです。守章先生が「六代目革命」という非常に優れた概念をお出しになったけれど、六代目革命は能、人形浄瑠璃、京舞の世界にも起きています。
「六代目革命」と近代
―― 本日の対談は、要するに近代の伝統演劇の行方ということです。また、伝統演劇はなんとなく、不変という見方がされていますが、実際にはかなり変わっていると思います。そういうことについても、お話をいただきたいと思います。
具体的には演技、演出、観客、あるいは演劇観ですね。歌舞伎観とか、能楽観とか、狂言観。それ以外にもあると思いますが、あらゆる面において近代という時代にもずいぶん変わっている。その根底には、上演環境がかなり変わってきているところから、演出などの変化も起きている気がしています。伝統演劇、近代100年余りにおける変化について、お話をしていただければと思います。
保 それは、「六代目革命」という言葉を発明なさった守章先生から。
守章 近代をすごく感じたのは、もちろん六代目の歌舞伎というのもありますけれども、梅若実の最晩年の『弱法師』『卒都婆小町』を見たときで、これはまるでスタニスラフスキー・システムではないかと思いました。とくに『卒都婆小町』では、もし本当にスタニスラフスキー・システム的なリアリズムで九九歳の老婆を演じると、こうしかならないのではないか。橋掛かりを進んでくることを、まだ能を見はじめたばかりの学生の頭に刻印するほど、近代というか、リアリズムという言葉では問題なのだけれど、様式とは少し違うところに、まさに舞台の感動があった。
伝統のことで、新劇の話をしないのは片手落ちだと思いますが、新劇が逆にものすごく大時代ですね。歌舞伎では終わってしまっていることを、もう一度なぞっているみたいな感じがして、そういう芝居は作りたくないという気がすごくしました。
本当の意味でというか、こっちの肉体と魂に突き刺さってくるような近代というのは、梅若実の方にあるという変な確信みたいなものをフランスに行く前にもち、フランスから帰ってきて、また見て、それを確認した。
ただしフランスから帰ってきたときには、もう少し能のことを知っていましたから、何も梅若実だけがあると思っていたわけではありません。それでも残っているわずかな映像の『鞍馬天狗』後シテの橋掛かり出の映像などを見るとすごいと思います。そういう意味で言えば、実物は拝見したことはないのですが、金春流の櫻間弓川(さくらまきゅうせん)による最初の能の映画もすごいと思う。何がすごいかと言うと、保先生がたぶん括弧付きで「近代」と言ったその近代、あるいは近代性と言った方がいいのかもしれませんが、それが伝統に培われた身体と感性との中に根付いて、そこから違うものとして再出しているという感じがしました。あの映像は、結局、六代目の「鏡獅子」と並んで、記念碑です。
ところが新劇を見ていると、そこへ出てきている身体とか言葉は、明治維新からあまり変わっておらず、やたらとバタ臭いのをやっている。これはいやだなと思って、新劇の養成所へ行ったりはしなかったのです。
だけど逆に言うと、伝統芸能に伝承されてきた身体的な感性なり、想像力なり、もっと簡単に言えば技術や表現は、そういう家に生まれて、子供のときからやっていなければできるはずはない。これは自分でやれるものではない。やるとすると新劇しかないのですね。
―― 確かにそうですね(笑)。
保 やるってどういう意味ですか。守章先生、役者になろうと思ったのですか。
―― 少し役者もやっておられます。
保 まあ、それは見ましたよ。でもそれは若いときから本気で思っていらしたのかと思って驚いただけです。
守章 そういう意味での近代はありますねということです。
伝統演劇というと、まったく何も変わらないで親から子に伝わってきているみたいなきわめて通念的なイメージがありますが、そのようなことはない。歌舞伎の世界で、親から子に、身体的に伝承されるというのを見ていても、それが養子であれ、お嫁さんの子であれ、夫の子であれ、簡単に行くものではないでしょう。
私が芝居を見だした最初の頃は、あまり変化の波がありませんでしたが、少なくとも平成になってからは、やたらといろいろなことが行われていますね。
―― それは今も続いているわけですね。
守章 そうですね。それがうまくはまればよいのだけれど、そういうことを検証しない。批評家がいらっしゃるところで言うのはなんですが、批評家もそれをちゃんと書かないということですね。
歌舞伎の近代化、戦後の五世代
―― 伝統演劇の近代化について、能では梅若実の例が挙がりましたが、同じ現象は歌舞伎にも文楽にも舞踊にもあったのですね。
保 みんな一般にね。一番わかりやすいのは歌舞伎だろうから、歌舞伎の例で申し上げると、歌舞伎は戦後70年の間に五世代ぐらい替わっています。そこに近代ということが非常に重要な意味をもってきます。われわれが戦後、歌舞伎を見はじめたときの宗十郎、それから七代目幸四郎がいて、われわれから見ると祖父の時代がある。その後に六代目菊五郎も、初代吉右衛門も入るのだけれど、幸四郎、宗十郎は半分は前近代です。
その中から近代の菊五郎が出てきて、次の世代が一一代目團十郎、白鸚、松緑、勘三郎、歌右衛門、梅幸という世代です。父の世代です。この世代は、近代の頂点に達した時代です。それで近代に行き詰まりがきて、次が現代の第一線の人たちの世代です。幸四郎、菊五郎、吉右衛門、仁左衛門、玉三郎、この世代です。ここには前近代から近代へ、近代から現代になるという明確な線が二つあります。死んだ勘三郎、三津五郎は孫の世代です。現在の海老蔵、菊之助は曾孫の世代です。
この五代を見ると、上は前近代ですから問題にならないとして、次の近代は非常に問題になって、それが破産するわけです。それはいろいろな意味で、演劇全般に言えることだし、舞踊全般にも言えることです。近代の破産があって、その後に現代が来るのですから、この間の線引きが非常に大事だと思う。近代はなぜ破産したかという問題もあるし、近代というのは何だったのかということも言える。それは1960年代前後に新劇の中からというだけではなく、社会全般の中で起きた、つまり五五年体制の崩壊ということがあると思う。それがなければ、このようには変わっていかないわけです。
能の世界にしても、万三郎の芸談に出てきますが、『隅田川』をやって面を掛けた後で、その面(おもて)の中で泣いているというわけです。その涙はお客には見えない。それでも泣かなければやっていかれないというのが近代なのでしょう。
近代の特徴は二つあると思います。一つは、表現方法が非常にシャープだということです。武智さんが挙げた十何人の人たちはみんなシャープです。もう一つは、人間性ということです。ところが、前近代では人間性なんて問題にしない。能だって歌舞伎だって、出てくる人間は近代的人間、つまり性格の統一された個人ではない。しかし近代は科学の時代だし、そこに生きている人間は、内面と外面で統一されている。その近代的人間観で前近代の人間をやれば、どうしても亀裂ができるわけです。亀裂に苦しんだ挙げ句に近代は崩壊して行き、現代に切り替わっていく。そこを正確に捉えないと具合が悪いと思います。
それから、守章先生がおっしゃった現代は、私は何でもありの世の中だと思うのです。それは非常に問題で、規範がなくなったということでしょう。観世栄夫(ひでお)がよそへ行って演出をしたり、いろいろなことをやるから破門する、追放するなどということを、今は誰も考えないでしょう。みんながやっている(笑)。その、みんながやっているということが、実は問題なのです。歌舞伎だけではなく、能・文楽でも規範というものがなくなったわけです。これは古典芸能にとってはものすごく問題です。規範がなければ、伝統にも存在価値はない。生きながらにして、こんな世の中を生きる年齢になったということで、私はひたすら驚くのだけれど(笑)。
守章 規範の話で言うと、まず六代目菊五郎というのは、「六代目革命」という、時代的にまさに近代、近代化ではなくて、近代そのものを舞台の上に、あの人の身体で立ち上げ、かつあの人の集団で立ち上げたということまではほぼ確実だと思います。
六代目が亡くなって、定番と言えば、梅幸が次にあるべきです。だけど六代目が生きていたときから、私は芝翫(しかん)時代の歌右衛門に熱をあげていました。違う二つのものが好きであったということがあって、 これが歌舞伎のいいところではないかと思ったのだけれど、この巨星は墜ちてしまった。
初代吉右衛門の後ろには文化人がついていて、歌右衛門は社会的にも文化的にもすごく出世をする。私はしばしば皮肉のつもりで言っているのですが、全然それがわかってもらえない。歌舞伎の頂点が真女形(まおんながた)であることは、社会学的に言えば「権力は女装する」ということだと、これは決して嫌みで言っているのではありません。
保 守章先生の説によれば、近代の美学は、六代目の影響を歌右衛門も受けているわけですね。その近代が女形とどう拮抗していくのかという問題が、歌右衛門の大問題として残ったわけです。
渡辺保(わたなべ・たもつ)
1936年、東京都生まれ。演劇評論家。慶応義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社、1965年『歌舞伎に女優を』で評論デビュー。企画室長を経て退社、多数の大学で教鞭をとる。2000年紫綬褒章受章。2009年旭日小綬章受賞。『女形の運命』で芸術選奨新人賞、『俳優の運命』で河竹賞、『忠臣蔵 もう一つの歴史感覚』で平林たい子賞および河竹賞、『娘道成寺』で読売文学賞、『四代目市川団十郎』で芸術選奨文部大臣賞、『昭和の名人豊竹山城少掾』で吉田秀和賞、『黙阿弥の明治維新』で読売文学賞を受賞。その他、多数の著書がある。
渡邊守章 (わたなべ・もりあき)
1933年生まれ。東京大学・放送大学名誉教授。舞台芸術研究センター主任研究員。専門はフランス文学、表象文化論。演出家。著書に『越境する伝統』等。訳・注解にクローデル『繻子の靴』(上・下、毎日出版文化賞、日本翻訳文化賞、小西財団日仏翻訳文学式受賞)、バルト『ラシーヌ論』(読売文学賞受賞)、個人訳『マラルメ詩集』、クロード・レヴィ=ストロース『仮面の道』(共訳・改訂版)など。能ジャンクション『葵上』『當麻』、クローデルの詩による創作能『内濠十二景、あるいは〈二重の影〉』『薔薇の名―長谷寺の牡丹』を作・演出。『繻子の靴―四日間のスペイン芝居』を翻訳・演出。レジオン・ドヌール勲章シュバリエを受章。