鼓童代表・船橋裕一郎×
国立劇場おきなわ芸術監督・嘉数道彦 対談
佐渡島を拠点にする太鼓芸能集団 鼓童の代表・船橋裕一郎さん(左)と沖縄で琉球の伝統芸能の伝承と普及をめざす国立劇場おきなわの芸術監督・嘉数道彦さん(右)。それぞれの舞台の歴史やその長さは異なりますが、今、この立場となり、芸を受け継ぐこと、次世代へ繋げることについて改めてお話しをしてもらいました。
船橋 嘉数さんと出会ってから、もう10年になりますね。
嘉数 そうですね。
船橋 僕たちは鼓童の研修生の時、佐渡島在住の沖縄舞踊家に琉球舞踊を習うのですが、その先生が沖縄のご出身で、沖縄県立芸術大学(以下、沖縄芸大)で教えておられる佐藤太圭子先生に師事されていたのがご縁の始まりですね。
嘉数 そうそう、沖縄芸大学は琉球舞踊は佐藤太圭子先生、組踊は宮城能鳳先生(人間国宝)が筆頭なんですよね。
船橋 その後、2005年にまた沖縄で公演する時にも佐藤先生にいろいろとお力を貸していただいて。その時、琉球舞踊の方々と共演という形で公演をさせていただきましたね。
嘉数 そう、僕は一番の若手でしたね。
船橋 だから、みんな嘉数さんのことをミッチーって呼んでいて(笑)。
嘉数 夜な夜なね、一緒に(笑)。
船橋 そう、夜な夜な飲みましたね(笑)。そんな出会いだったから、僕ら嘉数さんが国立劇場おきなわの芸術監督になったって聞いた時、「ミッチーが芸術監督になってるよ!」ってびっくりしました。
嘉数 でも、あの時は毎晩、朝まで飲みましたね。
船橋 リハーサルが佐藤先生のお宅であって、それが終わって今から飲もうかとなると、すっかり夜中でしたもんね。
嘉数 沖縄はスタートが遅いんですよ(笑)。でも、その時の共演は濃かったですね。
船橋 その後(2007年)に僕らの本拠地である佐渡島で毎年、夏に開催している野外フェスティバル アース・セレブレーションに佐藤先生や琉球舞踊の方々をお招きして、『海の道』というタイトルで共演したんですね。そして、その時も飲みましたね~(笑)。
2007年アース・セレブレーション「海の道」 Photo:田中文太郎
嘉数 アハハ、そうそう。佐渡でも朝まで(笑)。
船橋 面白かったですね。公演の時も突然、嘉数さんと組踊の阿嘉修先生がおじいちゃんとおばあちゃんに扮して客席から登場して、しかも途中でお芝居を始めて。
2007年アース・セレブレーションにて。嘉数さんと阿嘉修先生 Photo:田中文太郎
嘉数 まさか、あれを佐渡でやるとは。しかもあれだけの人数の前で。
船橋 2000人ですからね。
嘉数 あれは舞踊というか、お芝居に近くて、即興的なおしゃべりと踊りを組み合わせたものですね。でも何度も言いますが、まさか佐渡でこれをやるとは思っていなくて!
しかも、あんな大きな野外のステージでね。お客さんも海外の方までいらして。
2007年アース・セレブレーションにて。嘉数さんと阿嘉修先生 Photo:田中文太郎
船橋 会場にいらしてから驚いてましたね(笑)。「本当に、ここでやるんですか!!!」って。
嘉数 でも、鼓童のみなさんは温かいんですよね。沖縄でも佐渡でも大変ご迷惑だったかなと思うんですけれど、「飲みましょう」と言ったら来てくださるんですよ(笑)。僕らも、いろんな方と共演させていただきますけれど、別れが惜しくて泪を流したのは鼓童さんだけですね。沖縄公演を終え皆さんが帰る時、寂しくて居酒屋の前で泣いたのを覚えています。まあ、酔っぱらっているんですけれどね。アハハ。
佐渡公演でも私たちが帰る日の朝まで飲ませたのに、みなさん車や自転車で港に見送りに来てくれてね。本当にドラマみたいで人間が温かいんだなって、とても感動しました。その後、共演はなかったですけれど互いに坂東玉三郎さんとの繋がりがありましたもんね。
船橋 そうですよね。玉三郎さんで、また繋がるというのはびっくりですよね。
嘉数 僕らと共演した時には、すでに玉三郎さんとの繋がりあったのですか?
船橋 その頃はまだ鼓童の芸術監督ではなかったですが、すでに佐渡にはいらっしゃっていましたね。
嘉数 僕らは、まさか玉三郎さんと一緒に同じ舞台に立つとは思いませんでした(2013年3月 芸能史上初の試みとして、歌舞伎女方人間国宝の坂東玉三郎氏が新作組踊『聞得大君誕生』を国立劇場おきなわで上演)。いくら新作の組踊といえ、沖縄の人にとって組踊というのは基本的に組踊の人が演ずるものという観念があるので、外の世界の方が演じるのは本当に稀なことで。沖縄としては一大事件だったんです。
とても衝撃だったのはお稽古の時、私たちが今まで全く疑問とすら思わなかったことに対して玉三郎さんが問を投げて来られるんですね。だから玉三郎さんが「なぜ、こうなの?」と問われた時に理由が言えないんです。「なぜか分からないけれど、こうなんだ」と自然と思っていたからでしょうね。
船橋 僕らも全く一緒でした。
嘉数 そうですか。
船橋 「これは何で、こういう叩き方でしなくちゃいけないの?」「何でこのバチでなくてはいけないの?」って。
嘉数 あー。
船橋 そこからなんです。でも、「そういうもんだから」としか言えない自分たちがいて。だから、別のバチを使ってみてもいいかという気分になって「一回やってみます」と。やってみると新たな発見があったんです。それは外部の人が入ってきた大きな点でしたね。
嘉数 まさに一緒です。僕らの場合は「なぜ、こう立つの?」とからでした。沖縄の場合、女踊りの立ち方というのは足を開いて八の字に立つんです。でも、歌舞伎では内に閉める。逆の八の字に立ちます。ですが正直、誰も、なぜ沖縄の場合は逆八の字なのか考えたことはありませんでした。こうお習いしてきたから、こう立ってきたというのが本音ですね。
ですから「なぜなの?」と尋ねられた時、ハッとなったけれど誰も答えられなかったんです。とにかく、そんな風に投げ掛ける問いが非常に多いんです。それは日常的な会話の中など何気ないやりとりの中でもあって「ん?なんだろう」って「?」が出てきたりするシーンが色々ありました。
でも、だからと言って玉三郎さんは、違和感があるから、私が演出だからこうしなさいってことはおっしゃらないんです。それに対して答えを示し、指示を出すわけではなく種を蒔いていかれるような感じですね。それに気が付かせてもらえたのが私たちが玉三郎さんから大きく得たものだと思います。
船橋 それは、よく分かります。僕たちも今、ドラムや西洋の楽器も舞台に取り入れたりするのですが、それまで、そういった楽器は強いて取り入れなかったんですね。でも、「何で取り入れないの?」という問いに答えられなくて。だからちょっと抵抗はあるけれど、やってみる。すると結構いいものが生まれたり、実は響きが増したりするんですね。だから結局、良いものを作りたいという一点なんですね。
嘉数 そうそう。それは本当に勉強になります。ところで、鼓童さんは、研修所があってそこでは集団生活をしているんですね。
船橋 ええ、舞台で太鼓を演奏するというジャンルは、まだまだ新しくて発展途上なんです。ですから、いろいろな芸能を学んだり、狂言とか茶道を学んだり、農業などをしながら、2年間、同じ釜の飯を食い、共同生活をする。そこで、「鼓童の演奏者としての土壌」を作らないといけないんですね。
鼓童研修所での民俗芸能の稽古風景
嘉数 ああー。
船橋 そこが琉球舞踊や組踊、伝統舞踊の違いですね。 僕らは、そこまで根付いていないので、一回、集中して鼓童の太鼓、鼓童の体というのは、こういうものだというのを鍛え上げないといけないんですね。 そこが伝統芸能の方とは違いますよね。 伝統的な楽器を使い、伝統的な踊りや歌も歌いますが、本当にその2年間の修行をしないと到底、そういったものには追い付けないんです。
嘉数 研修所では実際、どういう生活をするんですか?
船橋 朝5時に起きてランニングして自分たちでご飯作り、畑作業してから稽古ですね。そして1年生と2年生が一緒の空間で、ただ修行の日々を過ごすんです。
嘉数 はー…
船橋 嘉数さんは?
嘉数 沖縄の場合、公の機関では 国立の組踊研修制度と 沖縄県立芸術大学にある琉球芸能専攻で 琉球舞踊組踊と琉球古典音楽が学べます。 ただ、どちらにしてもそれより前に自分で師匠の元に弟子入りして踊りの稽古をすることから始まります。
船橋 なるほど。
嘉数 その上で琉球芸能の実技をはじめ座学まで基本的なことを学ぶことが出来ます。 国立劇場おきなわの組踊研修制度は週4回の研修で3年間学びます。
船橋 毎日ではないんですか?
嘉数 毎日ではないんです。 月から木曜日までなんです。それも夕方6時半から9時半まで。 というのは、みなさん日中はお仕事されたり昼間は芸大に行っていて夕方から国立に 行くという方もいるからなんです。中には高校生もいます。
船橋 高校生も!
嘉数 学ぶのは組踊の実技はもちろんですが、 作法や発声訓練、身体訓練などのカリキュラムが組まれています。 実技の指導は人間国宝をはじめとした先生方で、 手取り足取り大変、丁寧にご指導くださります。 それぞれの師匠から教わることはもちろん、 公の機関で多くの先生方から教えを請うことが出来る環境が今、確立されつつあります。 その結果、沖縄芸能が活気づいているのかなと感じています。
国立劇場おきなわの組踊研修。組踊実技「立方」の稽古風景
船橋 それは流会派を超えて教えるということですよね。はすごいことですね。
嘉数 そこはある意味、沖縄芸能のゆるさというか、穏やかさというか。しかし流会派の誕生自体がまだ新しく、何百年という歴史を持っているわけではないんです。それに流会派に止まらず芸能界全体で後継者育成をしようという機運が高まってきたのもあり、今の私たちの世代があるのかなと思います。そういう先生たちの温かさに頭があがりません。それに自分の所属するお家、流会派にはそれぞれ特色がありますので、芸大に来ようが国立の研修に来ようがそれは極力崩すことなく、お互いのカラーを尊重し合っています。
船橋 私たちの場合、やはり鼓童には鼓童としての打ち方のスタイルがあるのですが、最近では子供の頃から太鼓をやっている子が多いので鼓童の打ち方にして欲しいという時に若干とまどったりする、というのがありますもんね。
嘉数 へー。 僕らは国立の芸風にしなさいというのは一切ないですね。でも、どの流会派でも基本は同じなので、そこは指導します。組踊は演劇なのでお家の特色を持ちあわせた上でその役の持ち味を活かしていくという指導ですね。
でも、鼓童さんの素晴らしいのは、ずっと一緒に暮らしていて家族的というところですよね。僕たちはどうしても個人プレイで、ひとつの舞台が終われば、バラバラになってしまう。次はいつ一緒になるか。
船橋 へー。
嘉数 でも、まあ限られた人数ですので、大体一緒ですけれどね、鼓童のようにキッチリとしたチームプレイかというと、そうではないかもしれません。そこが弱いのかなあと今、聞いていて思いました。
船橋 でも、やっぱりみなさん子どもの時から先生の所に通って、内弟子に入られたり、大学や養成所に入るから基本的な土壌がね、違うんですよね…。共演させていただいた時も、演者のみなさんの中には働きながらという方が多かったですよね。
嘉数 今でもそうですね。
船橋 素晴らしい芸の持ち主の方ばかりなのにみんな働いてから稽古に集まってきて、すごいですよね。
嘉数 いえいえ。研修所の生活に比べたら(笑)
船橋 でも、僕らは佐渡島だからこそ、鼓童の前身である鬼太鼓座時代から含めて35年、40年以上やってこれたのかなと思います。都会でバラバラに暮らすのではなく、みんな比較的、近くに住んでいますからね。
嘉数 ええ。
船橋 島暮らしは旅公演をするのには不便ですが、都会から離れた所で籠って音を作ってこれたのが良かったし、何せ自然が豊かで、古いお祭りが残っていたり、文化的なものも残っている。そこが僕たちにとっては大切ですね。
でも、実は佐渡出身という地元の人間がいないんです。だから僕たちには「地元」という感覚や血みたいなものがない。そういう点でも沖縄は、すごく羨ましいですね。大変なこともあるだろうけれど、そこに脈々と続いてきた芸能ということに対する憧れがありますね。
嘉数 逆に僕たちは「血」だけですからね(笑)。それが原点だと思いますがそれに甘んじてしまうという恐怖がありますね。
船橋 うーん。
嘉数 沖縄の人だから、沖縄のものだから、ということで解決してしまう時が、ややもするとあるんですね。沖縄の芸能だから沖縄の人が楽しければいいんです、という言葉で片づけられるものではないと思うんです。そこは重要なところで、自分の中の沖縄のDNAが、血が、騒ぐのでお客さんも歌えるし、踊れる、というのは、とてもいいことである反面、それに甘んじてはいけないなと思います。
玉三郎さんとの共演や、鼓童さんとの繋がりの中で、そういう今までの環境だけに満足してはいけないなというのも感じましたね。
今後、舞台芸能として演じていく、 踊っていく、演奏していくからには、単に地元の人が共感するものだけを上演するのではなく、 もっともっと高めていく必要があるし、 高まる可能性を持っているものであると思っています。 ですからDNAを大事にすると同時に、 もっと自分に磨きをかけていかなければいけないなと思いますね。 今、おっしゃっていた鼓童さんの所には地元の人がいなくて、 あちらこちらから集まって来たというバイタリティーが逆に、
船橋 そうそう、そうなんです。
嘉数 だからこそ、鼓童村で、この家族でやってやろうという 強さがあると思うんですけれど うちは、ややもすると、 そういう気持ちを無くしてしまうのではないかと思うんです。 船橋 研修所での共同生活もあるし、その後の生活圏も同じなので 僕らに流れているものが一緒だから、 パッと集まっても、すぐに一緒に演奏ができるんですけれど、 舞台では常に意識をして、DNAの奥底のものを出していかないと 伝統的なものには叶わないんですよね(笑)。
船橋 先ほども言いましたように、 血で演じられる方たちと同じことを 僕たちが真似してもできないんです。 もう本当に。同じようにしようとしても、 だだの上っ面になってしまうんですよね。 そこが、やはり嘉数さん達が羨ましいですね。
嘉数 語弊があるかもしれませんが、 琉球舞踊や組踊に関しては やはり玉三郎さんより僕らの方が上手だと思います。 だって沖縄の人の沖縄の踊りだものといえばそれで終りです。 しかし、それだけでない 美しさを見せるというところ、舞台芸という「芸」の力とはなんだろうと感じさせてもらえたのが前回の共演で得たものでした。だから僕たちは沖縄の人として沖縄の踊りを踊るだけでいいのかなという不安や 感覚が出てきたというのが大きいですね。 玉三郎さんの芸を真似ようという訳ではなく、 玉三郎さんのやり方、見せ方を見て、では、私たちはどうやっていけばいいんだろう、というのを考えるようになったのが大きな出来事でした。
船橋 それは分かります。僕らの場合、玉三郎さんが来られた時は鼓童はこう! とスタイルが固まってきた時だったんですね。その分若干、閉塞感のようなものがあったように思います。その時はまだ創立20年目で、まだ歴史は無いのに型みたいなのができてしまっていた。そんな時にいらっしゃって根本から「そこはそうじゃないんじゃないの?」と示してくださったんですね。
嘉数 僕らも玉三郎さんが来られたのはタイミングがよかったんです。というのは沖縄県立芸術大学(音楽学部の開設は1990年)ができて、国立劇場おきなわ(2004年開場)ができて組踊が年間を通して沢山、舞台が打てるようになり、私たちのような当時20代、30代だった世代が育ってきた、育とうとしてきた時期ですね。僕が子役で出ていた時、客席には身内が点々といるぐらいで。組踊はお金を払って観にくるものではなかったんですね。本当に冬の時代。沖縄の冬の時代(笑)
船橋 アハハ
嘉数 こちらから見たら暑いんでしょうけれどね(笑)。沖縄では寒かった。人気がなかったんです。その中で何とかしなくてはいけないという思いが生まれて芸大ができて、それから国立ができるとなった時、はたして上演していくだけの後継者がいるのか、演者がいるのかと宮城能鳳先生らは多くの人に言われたそうです。
船橋 うーん。
嘉数 やりたいという男性がいるのか。(琉球王朝の宮中でうまれた組踊は本来男性のみで上演する)もしくは女性にさせるのか、と言われたんだそうです。でも、先生方は「20年で育ててみます!」と言い張って、必死になって後継者育成に取り組んだんですね。
戦後は琉球舞踊も組踊も女性が積極的に演じてきたのですが、芸大開学以降、男性舞踊家の数が増えてきました。また、劇場ができたことで、舞台の数が倍の倍まで増えましたので、卒業したみなさんの活躍の場が数多く与えられるようになりある程度の役もこなせるようになりました。今、主役を張るのは、この世代ですね。
先生方は脇に回り、指導するというのが近年、国立劇場おきなわでは主体になってきます。どんどん若い世代を出していこうというスタイルですね。そんな時に玉三郎さんが来られたんですね。
これが、もう10年前だったら求められるものに応えられるほどメンバーも揃っていなかったかと思います。そういう意味でも沖縄としてはタイミングの良い時期だったかなと思います。
先輩方の厳しくも温かいご指導のお陰で今日があると思います。そんな先生方、先輩方と実際に今日、舞台に立つ中堅・若手の演者との交わりは継承という点でとても重要視しています。「あの先生はこんな風に演じていた、こう、おっしゃっていたよ」とか、お稽古の中で見知らぬかつての舞台のお話を聞くだけでも中堅、若手にとっては、かけがえのない大きな収穫ですね。良い舞台を作るため、技芸についてご指導頂くことは大切ではありますが、それ以上に楽屋や稽古場での芸談から学ぶことも多いですし、重要ですね。
ですから、そこも含めて先輩と後輩が良い交流を持ってもらいたいなと思っています。後輩たちも一生懸命やってくれるので、私も先生方とのやりとりができているのかなと思います。
船橋 先輩と後輩を繋ぐ役は大事ですよね。僕らは先輩が独立などで辞めて行くので、その時代の先輩の話が直接聴けないし、聞いていたことを伝えるしかできないのが辛いところですね。若い世代が中心の舞台とはいえ、もう少し先輩が残ってくれる環境になればいいなと思っています。本当に話を聞くだけでもね、曲の成り立ちとか、これはこういう思いで作ったんだよと聞くだけでも再演する際に役に立つ。もう、作曲者がいなかったり、わずかな記憶を頼って演奏するので。そこは、僕の課題でもありますね。中堅で頑張って来た人たちが、充実できるグループにしていきたいなと思います。
嘉数 辞めていかれるというのが、私たちにはない感覚ですね! しかもみんな沖縄に住んでいるので(笑)。舞台には立たなくなっても指導者として携わっていただけるので、ありがたいことなんだなと今、話を聞いて思いますね。
きれいに整い、感動を与える舞台を作っていくことは当然の目標ですが次へ繋げていく作業も舞台を作るうえで、大きな役割でもあると思っていますね。
船橋 ええ。
嘉数 伝統芸能という面からは単に、お客様が満足する舞台を続けていけばいいというだけではないと思います。自分自身を磨き、内面的も常に高めていき、その上で、お客様に喜んで頂く。自分を磨くためには先輩方の助言や、お客様の率直な感想、日常会話のちょっとした話の中にヒントになることが一杯あるので、そういう意味では今、大変、恵まれているのではと思います。
船橋 僕らは、そういう芽生えがちょうど出来てきたところですね。創成期である僕らの先輩は今、60歳を越えて、会社でいえば定年という年代になってきました。これから次の鼓童をどうしていけばいいのかを考える時期ですね。というのも、もともと鼓童というグループは残していこうと作られたグループではなかったんです。「今、ここでやろう!!」とできたグループが徐々に歳を積み重ね、年数を重ねてきたんです。だから今年、僕が代表になった時、次の世代に繋げていかなくてはいけないなと思ったんです。今まで必死にやってきたものを繋いで鼓童というグループを残していくことは、すごく大事なことだなと。
嘉数 僕は自分が好きだから残したい、知ってもらいたいんですね。伝統芸能なので自分たちの作品ではなくて、過去の人たちが作ったものです。それを2016年今現在、好きな人たちが集まってやっている。お客様から「そんなもの必要ありません」と言われれば、そうかもしれませんが、
でも自分がやりたいと思ってるから、やりたい。でも、やるからには知ってほしいし共感して欲しいですね。美味しいと感じた食事を、みんなにも食べて欲しいっていう思い、それと同じことじゃないかなと思っています。
ただ、好きでやっていることが伝統の一ページになることが出来れば、嬉しい限りですね。伝統的な中で培ってきたものに、さらに磨きをかけ、次の世代へ良い形で受け渡す、繋げていく、という作業をしていきたいです。私自身は、それが演じることなのか、制作的なことなのか、わかりませんが、自分がやれることを精一杯やって、次の世代に、なんらか繋げることが出来たらいいなと思います。
船橋 そうですね。そういう意味でも春秋座は大学の中にある劇場なので、もっと学生さんに観に来てほしいですし、学生さんが劇場に何かを見に来るという土壌を一緒に作りだしていけると面白くなるなと思うんです。せっかく、ご縁があるのでまたご一緒したいです。しばらくご一緒していないですもんね。
嘉数 佐渡島でご一緒して以来ですもんね。
船橋 うちにも若い世代が
嘉数 はい。うちにもおりますので。
船橋 お互いの若い世代も繋がって、輪ができていくといいなと思います。
作品作りもそうですし、こういう劇場だったら、面白いことができるんじゃないかなと思います。