観客としての半世紀
三代目市川猿之助(「翁」の文字は、この人にはやはり身に添わない)の舞台に初めて触れて、早いもので半世紀になる。
その「猛優」が思わぬ病に倒れ、その訃を聴く迄およそ二十年。実に夥しい数の「疑似猿之助歌舞伎」の新作が舞台にかかっては消えていった。どこが違うのか。昨今の実験歌舞伎に通底する「歌舞伎って敷居が高いでしょ? 難しいでしょ?」という卑下と客への媚びなど、猿之助には無縁であった。確かに「3S」の名に恥じない極上のエンタティンメントであったが、決して敷居を下げず妥協しない「大歌舞伎」だった。
『菊宴月白浪』は、大凧の宙乗りに眼を奪われるが、「錆たりな赤鰯」とか「我が文ながら捨ても置かれず」なんて本歌の名ゼリフを知っていれば一層面白い。『四天王楓江戸粧』は脇狂言から雪の世話場まで、顔見世の繁文縟礼を毎年クリアしていく狂言作者たちのしたたかな戯作精神を世に識らしめた。それらを支えた多くのブレーンたち。鴈治郎・延若・権十郎は言うに及ばず、門之助・宗十郎・田之助ら同志たちによって、どれだけ舞台に厚みが加えられたことか。たとえれば猿之助は、観客をめくるめくケレンで歌舞伎に誘って、気が付くと少し高みから手を振っている。ようやくそこに到達して見える歌舞伎は、それまでとは全く違った景色になった。さらにこれに「スーパー歌舞伎」という冒険が加わる。同じ座組で、今月はヤマトタケル、来月は仁木の宙乗りを愉しめたのは幸せだった。
倒れる数年前から、猿之助は第二次春秋会で、これまで不得手として来た役に敢えて取り組んだ。『筆幸』では小天狗要次郎のくだりを、『髪結新三』ではお熊の婿殺しと大岡裁きの白洲を復活して全体像を見せるあたり、タダでは起きないこの人らしい。『天下茶屋』の安達元右衛門をはじめ、こうした古典の役々が彼の中で定着・発酵していったら、その後の歌舞伎をめぐる様相も随分変わったものになっていただろう。国立劇場『競伊勢物語』の紀有常は優れた出来だったが、病を得なければ次は南北の『當穐八幡祭』を考えていた、というこの見識を、今誰に求めれば良いのだろう。
仁左衛門の権太で評判を取った歌舞伎座『すし屋』。歌六の弥左衛門、錦之助の維盛、彌十郎の梶原、床の葵太夫。皆、「猿之助学校」の卒業生である。部屋子や国立研修生から育てた、右團次・笑也・笑三郎・猿弥・青虎・河合雪之丞・喜多村緑郎らの存在感を思うと、名伯楽猿之助なかりせば、の感を深くする。
それにしても、いま我々が眼前する「実験歌舞伎」の殆どは、猿之助が走り抜けた八十三年の人生が生み出した創造精神の焼き直しで、彼の通った後は草も生えない趣だ。だからこそ、後進の者たちはこの巨人の航跡を改めて振り返り、その目指した目的(江戸歌舞伎の原初的エネルギーの再生)を見誤らず、彼の「忘れ物」を探し続けるべきなのだ。
それなくしては、今後の歌舞伎の稔りなど望むべくもあるまい。
(演劇評論家)