追悼文
長くご病気休演中でいらしたので、ご逝去をある程度予測はしていたのだろうと聞かれるのですが、とんでもない、逆に年を追うごとに百まで生きられるだろうとの確信が深まっていましたので大ショック、二ヵ月が経過しても立ち直れてはいません。
今はまだ、客観的に三代目猿之助さんのことを “過去” として振り返るなんてできません。もちろん歌舞伎の歴史上、何十年に一人という形容でいえば “百年に五人” には必ず数えられるべき偉業を果たされたお人だと思いますが、それは研究者やマスコミが統括してくれるでしょう。
猿之助さん(猿翁さんと呼ばないことを、ここではお許しください)がなされた多くのお仕事の中では、石川耕士という歌舞伎の台本や演出を担当する人間をつくったことなどは、わずかなひとつに過ぎないでしょうが、こっちにとってはそれがすべてです。膨大な偉業は二の次で、猿之助さんは “ボクをつくってくれた人”ということに尽きるのです。
“つくってくれた” が一番ふさわしくて、教えてくれたとか育ててくれただと違う気がするのは、こと芝居に関しては丸ごと猿之助さんを移植されたように思えるからでしょう。猿之助さんの眼で見て、猿之助さんの脳で考えるというように――そして “こと芝居に関しては” と断り書きを付けましたが、ボクにはほとんど芝居しかないので、ほとんど猿之助さんに “つくってもらった” ことになるわけです。
ご逝去から密葬まで間があったため、四日間ご遺体のおそばにいられて、徐々に (ご逝去という)現実を受けとめられた気もしていましたが、最終日のお別れの瞬間には、
「猿之助さんがボクをつくったんだから、その猿之助さんがいなくなってしまうんならボクも消えてしまいたいですよ」と語りかけました。後追い自殺はしないまでも仕事をやめてしまうのが、武士の主君に対する “殉死”だと思うからです。ご病気になられた時は、ボクもまだ働き盛りだったので、実質的 “殉死” 常態(仕事がないので脚本家・演出家としては死んだも同然)に耐えられず、そこを四代目猿之助さんが生き返らせてくれたのですが、今はもう歌舞伎から足を洗ってもかまわないとも思うのです。でも、
「石川さん、あんたは猿之助四十八撰はじめボクのつくった作品がおかしな方向で上演されたりしないよう、後を頼みますよ!」
と言われたような気がする――というのは自分勝手な思い込みかもしれませんが、もう少しの間このお仕事を続けたほうがいいのかナ、なかなか元気・やる気は起こらないけど。
「ボクはね、六十すぎまで完全燃焼したけど、石川さんは遅く歌舞伎に入って、まだそれほどの仕事もしてないのに何を言ってる!」
あッすいません。猿之助さんは本当に、みずみずしいエネルギーの燃焼(ご本人の口ぐせ)を完全になさいました。お疲れさまでした。お疲れさまでした。
(脚本家)