冒険心あふれる舞台 ~「春秋座花形舞踊公演」の挑戦
畑律江

序幕は、大膳が放った暴れ馬の鬼鹿毛(おにかげ)を、判官が乗りこなすのが見どころ。続く二幕目は近江国堅田浦が舞台。判官と離れ離れになった照手姫を、漁師浪七、実は横山家に仕えていた忠臣・水戸小次郎(勘十郎)が救う。浪七の女房お藤(花柳双子)の兄・胴八(若柳吉蔵)が漂わせる小悪党の雰囲気が面白い。胴八は、姫を売ろうと舟でさらうが、浪七が龍神龍女に命を捧げて舟を波で引き戻す。岩に逆さ吊りになる最期が壮絶だ。
三幕目では、万福長者の娘・お駒(芳澤壱ろは)が、照手姫を捜して美濃国にやって来た判官を見初め、長者館に連れてくる。お駒の母・お槇(勘十郎)は、もとは照手姫の乳母。館で働く下女の一人が照手姫だと知り、お駒の恋心を理解しながらも、「諦めて下されいのう」と頼む。悪人や忠臣を演じてきた勘十郎が、この場で見せた母親の苦悩が胸に迫る。役柄の表現には、なりかたちでなく、むしろ性根こそが物を言うという事実を改めて感じさせられた。お槇は、お駒ともみあううち、お駒を斬ってしまう。お駒役の壱ろはは、初心(うぶ)だからこそ、亡霊になっても恋を捨てない執着心を説得力ある表現で見せた。説経節では、地獄に落ちた判官が餓鬼の姿で蘇生するが、この作品では、お駒の執念が判官の容貌を醜くし、足腰を立たなくさせる。怪談仕立ての構造である。
大詰では、勘十郎作曲による長唄を用い、照手姫が、判官が乗った車を綱で引いて熊野に向かう道行をしっかり見せた。判官が湯治場で沐浴し、遊行上人(吉蔵)ら僧たちが力強い踊りで祈りを表現すると、判官は元の美しい姿に戻る。続いてダイナミックな宙乗り。素戔嗚尊(すさのおのみこと)(勘十郎)に守られた判官と姫が、白い神馬にまたがって常陸国を目指す。83年版『當世流小栗判官』の際に、米映画「E.T.」の自転車のシーンから考案された宙乗りだが、どこかメリーゴーラウンドにも似て、ほほえましい。この後、華厳の滝を背景に、判官と姫が、局藤波(坂東はつ花)と奴三千助(藤間康詞)の加勢を得て、ついに仇の大膳親子を討ち取る。白い紙吹雪が大量に降って大団円。説経節の荒唐無稽さを失わず、起伏に富む場面が「これでもか」といわんばかりに続いた2時間半。冒険心あふれる舞踊劇だった。
他に舞踊が2作。壱ろはの『新鷺娘』は、自身による初振り付け。一般的な『鷺娘』は、鷺が娘の姿となり、最後に地獄の責め苦を負うさまを見せるが、この舞台では、娘の恋心が、春の明るい雰囲気の中で描かれる。娘の初々しさが満ちていた。『鬼揃紅葉狩(おにぞろいもみじがり)』は、平維茂に團子、更科の前、実は戸隠山の鬼神に勘十郎。前半の高貴な女性と侍女たちによる舞と、後半、正体をあらわした鬼神と鬼女たちによる迫力のある群舞が対照的。いずれも動きがそろって美しい。維茂に神の御剣を授ける千秋彦・百秋彦を、藤間康詞・智基が可愛らしく、芝居心たっぷりに演じた。
全編の開幕前には舞踊の『三番叟』もあり、『小栗判官車街道』では腰元や女中たちによる踊り仕立ての場面が楽しませてくれた。観客である私たちの目は、とりわけ自分に近い世代の出演者に引きつけられるものだ。その点で、若い俳優と舞踊家のエネルギーが横溢した今回の舞台は、内容もわかりやすく、若い人たちが日本舞踊に関心を持つ入り口にもなるだろう。上演を重ね、舞踊公演の新たな観客層を開拓していってほしいと願う。
畑 律江(はた りつえ)
毎日新聞社で神戸支局記者、大阪本社学芸部記者・デスク、地域面・夕刊特集版編集長などを歴任し、2013年からは学芸部専門編集委員(舞台芸術担当)として古典芸能から現代演劇、ミュージカルまで幅広く取材。2023年に退職後も、地域と舞台芸術のかかわりに深い関心を持ち続け、新聞や演劇誌にリポートや論考、評を執筆している。毎日新聞客員編集委員、大阪芸術大学短期大学部客員教授。