そのころ、宮沢さんは、京都にいた――
森山直人
宮沢章夫さんの訃報にはじめて接したのは、公式発表の数日前、たまたま出会った友人からだった。長いこと体調がよくないことは聞いていたが、まったく予期していなかったので、絶句するほかなかった。最後にお会いしたのは、編集にかかわっていた雑誌 『舞台芸術』22号 での座談会収録のとき。あのときから、そんなに時間が経ったとは思えない。
宮沢さんは、2000年から2004年までの5年間、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)で教鞭をとっておられた。私自身もちょうど同じ大学に赴任したばかりの時期で、幸運にも同じ時間を共有することができた。ここでは、その時期のことを中心に、宮沢さんの個人的な思い出について、少しだけ記しておきたい。
いま手元にある雑誌『ユリイカ』臨時増刊「総特集・宮沢章夫」(2006年)にある自筆年譜を読むと、京都に関する記述が予想以上に多いことに驚く。
あらためて振り返るなら、宮沢さんは2000年4月に、京都造形芸術大学芸術学部の「映像・舞台芸術学科」の教授に着任されたのだが、こうした京都への思い入れの背景には、おそらく宮沢さんが敬愛していた劇作家・演出家の太田省吾さんから、直接誘われたことも大きかったのではないかと感じる。上記『ユリイカ』掲載の自筆年譜の「1988年」の項には、次のような言葉が見られる(――まだ遊園地再生事業団を立ち上げる前のことである)。
しかしこの年の大きな出来事は、転形劇場が解散を目前にして公演した『水の駅』を、T2スタジオで観たことだった。少女がひどくゆっくりした足取りで歩いてくる。舞台の中央には客入れのときからずっと水道から水がしたたり落ちている。水の音がする。長い時間が過ぎた。少女がようやく水道のある位置までたどりつき、バスケットの中からコップを出すと、水に差し出す。その瞬間、ぴたっと水の音が消え、それと同時にサティの『ジムノペディ』が流れたのを聴いたとき、これまで観たどんな舞台よりも美しい瞬間に出会ったと思った。
終演後、作・演出をする太田省吾さんの著書『劇の希望』を購入。その演劇観、表現方法についての考え方から大きな影響を受けた。(195頁)
ところで、2000年4月、といえば、まさに「映像・舞台芸術学科」の立ち上げの年。最初の1回生が入学してきたばかりの年である。私はまだ専任教員として赴任していなかったが、新聞でそのニュースに接したことは、なぜかいまでも鮮明に覚えている。ちょうど同じ年に、桜美林大学も本格的に演劇教育に乗り出した年であり、太田さん、平田さん、宮沢さんの名前がそこに出ていた。まだ大学院の博士課程に属していた私は、あ、大学でこんなに演劇教育をはじめるところが増えてきているんだ、と思った。まさかそれからまもなくして、自分が呼ばれることになろうとは思っていなかったのだが。
私が同大学に着任したのは2001年10月だが、その年の4月に、京都芸術劇場(春秋座・studio21)がオープンしている。つまり、宮沢さんは、「大学の劇場」がオープンする前年に、京都に赴任していた。宮沢さんの自筆年譜の「2001年」の項には、「京都造形芸術大学のカリキュラムに変更があり私はこの年から前期の担当になった」(201頁)とある。私がはじめて同大学を訪れたのは、自分自身の就職のために、2001年7月の下旬頃だったと思うが、その時、太田さんをはじめとする学科の人たちから、「ついこないだ前期末で、ちょうど劇場を使った最初の学生の授業発表公演が終わったばかりだったんですよ」と言って渡されたのが、自筆年譜(202頁)にも出てくる、宮沢クラスの『あの小説の中で集まろう』のチラシだった。
半年もしくは1年間をかけて、プロの演出家・振付家と一本の舞台作品をつくりあげていく、という授業発表公演の授業は、その当時はあまりにも豪華で、宮沢さん(2回生前期)、松田正隆さん(2回生後期)、ジョン・ジェスランさん(3回生前期)、川村毅さん(3回生後期)、観世榮夫さん(2・3回生通年)、太田省吾さん(3回生通年)、山田せつ子さん(3回生通年、途中から2・3回生通年)、といった布陣。自筆年譜で宮沢さんも言及しているように、「映像・舞台芸術学科」は「映像芸術コース」と「舞台芸術コース」の学生がどちらも自由に履修できたので、映画や実験映像を志す学生も、ずいぶんたくさん演劇やダンス、伝統演劇の授業に参加していたのは、間違いない事実である。教員‐学生間だけでなく、教員同士のあいだでも、他の教員の成果発表を見合い、日常的に刺激し合えたことは、とても貴重で贅沢だったと思う。たとえば、宮沢さんは『トーキョー・ボディ』(2003)が、ジョン・ジェスランの『SNOW』に強い影響を受けたことを公言しているが(『舞台芸術』6号)、それは2002年7月にジェスランが学生たちと行った授業発表公演『SNOW』を、宮沢さんが客席で見ていたことを意味している。
学科長の太田さんの方針は、「アーティストとしての創作活動の時間が確保されるように」、宮沢さん、松田さん、ジェスランさん、川村さんについては、一人分の専任教授の枠を前期担当と後期担当の二つに分け、半年は大学を離れて自作に集中できる、という配慮をなさっていた。そういうわけで、2001年以降は、宮沢さんは前期担当者として、毎年、2回生の学生とともに、『おはようと、その他の伝言』(2002年7月)、『アイスクリームマン』(岩松了作、2003年7月)、『ガレージをめぐる5つの情景』(自作「ゴーゴー・ガーリー!」の改訂、2004年7月)の、合計4本の授業発表公演を劇場で制作していった。上記3作品は、私はすべて見ているが、たしか『おはようと、その他の伝言』だけが春秋座(大劇場)で、あとはstudio21(小劇場)での公演だったと思う。宮沢さんはそのほかにも、入試の実技科目で行うワークショップなども、ごく当たり前のように担当なさっていた。最近はめっきりそういう機会も少なくなったが、当時は、尖った学生も少なくなく、授業発表公演が終われば、そういう学生たちと打ち上げで朝まで飲むのが普通だった。私自身も、何度も学生たちと、朝まで語り明かしたことがあるので、たぶん宮沢クラスの打ち上げにも参加していたはずだが、お酒が飲めなかった宮沢さんは、二次会・三次会になっても、24時間喫茶かファミレスかなにかで、コーヒーを飲みながら(!)学生たちと一緒にいた、という噂も聞いたことがある。以下の宮沢さんの自筆年譜の記述(2001年)などには、そのころの雰囲気がとてもよく出ているような気がする。
新しく学内にできた「studio21」の管理規則はまだ緩やかで、発表公演に向けた授業の稽古をやろうと思えば夜の12時くらいまでできる。はじめは過酷な労働だと思っていたが、学生らとなじむうちにそれが面白くなって、むしろ稽古が終わってもほとんどの学生が帰ろうとしない。「studio21」の前でだらだらとしゃべる時間がとても楽しい。そして私は烏丸御池のマンションまで自転車で深夜の京都を走って帰る・・・(202頁)
そう、そういえば! 私の記憶に残る京都の宮沢さんといえば、なんといっても第一に「自転車」である。授業の前後に、よく晴れた明るい京都の空の下、そんなに車通りの多くない白川通りや北大路通りを、(長髪のときであれ短髪のときであれ)颯爽と自転車で走る宮沢さんの軽やかさは、鮮明に焼きついている。
あんなに気持ちよさそうに自転車に乗る人に、私はまだ出会ったことがない!
そしてもうひとつ、印象に残っているのは、その正反対の姿。studio21の入り口で見た、腰を痛めて車椅子に乗る、かなりやつれた宮沢さんの姿である。宮沢さんの『「資本論」も読む』(2005)には、授業発表公演にディープにかかわっていた時期の宮沢さんのウェブ日記が多く引用されているが、いま読み返すと、いかにあの頃が忙しい時期だったかがわかる。「自転車」と「車椅子」。この二つの相反する乗り物の「あいだ」で、あの頃、宮沢さんは考え、書き、そして当時の学生たちと付き合っておられた、ということなのか・・・。
私が見ることのできた宮沢クラスの授業発表公演のなかでも、もっとも印象に残っているのは、最後の年の『ガレージをめぐる5つの情景』である。やや大きめのブラックボックス型小劇場であるstudio21の客席ユニットは、解体して自由な形に組み替えることができるのだが、宮沢さんは大きな客席ユニットを解体して4つの小さな客席に分割し、四方にそれらを配置することで、十字路のようなアクティングスペースをつくっていた。
あくまでも個人的な考えだが、宮沢章夫作品は、宮沢さん自身の言葉を借りれば、空間が「茫然」とすればするほど、強い魅力を放ってきたと思っている。もともと「よりよく見る」ための装置にほかならない「プロセニアム型」や「対面型」の舞台-客席構造だと、集中度が高まりすぎて「茫然度」は薄まってしまう。その点で、『ガレージ』の十字路舞台は、私が見た宮沢作品のなかでも、もっとも成功した空間構成のひとつだったと確信している。文字通り、四方八方から、茫然とした登場人物たち(=学生たち)がやってきて、また去っていく。いまこの公演のチラシが手元にあるのだが、それを見ると、いまでも演劇やダンスを続けている人がたくさんいる。すべてあげていったら切りがないが、たとえば、いま東京で活躍しているユニット「バストリオ」の今野裕一郎さんや橋本和加子さんの名前もある。こちらはどうしても記録がみつからないのだが、『おはようと、その他の伝言』には、舞台芸術コースにいた演出家の杉原邦生さんなどのほかに、その後に映像芸術コースから舞台芸術コースに転コースすることになる、いまではチェルフィッチュの「映像演劇」のコラボレーターである山田晋平さんや、音響アーティストとして活躍している荒木優光さんなども参加していたはずだ。大学における宮沢さんの影響力は、狭い意味での演劇にはとどまっていなかったと思う。多くの刺激を、宮沢さんから受け取っていたのではないか。
65歳という年齢は、一般的にいえばあまりにも若い。とはいえ、個人の一生は、けっして一般化できるものでもない。宮沢さんは、とにかく忙しい人だったし、無理も重ねてきたと思う。宮沢さんが日本の現代演劇全体にもたらしたものが何であったかについては、またいずれじっくり考えてみたい。ともかく、いまは、ただ、心からご冥福をお祈りするばかりである。
(演劇批評家)