【レビュー】響きあう「多」なる「他者」
~演説『カーストの絶滅』が開く困難で豊かな世界への窓~|伊藤愛
「他者」との出会い、それは演劇の大きな効用のひとつだ。自分以外の人生に触れる時間を、自分以外の人と集い一緒に舞台を見つめながら過ごす。劇場は、「他者」との交流と応答の場所でもある。
演説『カーストの絶滅』のテキストをもとにした「さようなら、ご成功を祈ります」―B.R.アンベードカル博士が1936年ラホール市のカースト撤廃協会の招待に応じて準備したものの協会側が内容が耐え難いと判断し招待を撤回したために実際には読み上げられなかった演説『カーストの絶滅』への応答(ここまでが公演タイトル)は、約90年の時を経て物理的な距離も民族的理解の点でもけして近いとは言えない日本の京都で、アンベードカル博士の「封じられた声」を世に響かせた公演である。同時に、本上演は根深く残る差別廃絶への訴えを超えて、制度によってシステム化された他者との関係性に揺さぶりをかけ、新たな「他者」との関係構築への「可能性」を演劇の場で試みたものでもある。その可能性はどこへ向かうのか、どんな応答を我々に残すのか、演劇が拓く「他者」への可能性について考えてみたい。
撮影:井上嘉和 撮影日:2022年12月11日 ©京都芸術大学舞台芸術研究センター
公演の概要
開演すると三名の俳優が花道に現われ、客席に向かって自己紹介を始める。日本語を話す武田暁は「私はチャンドルです」、英語を話すアニルドゥ・ナーヤルが「私はタケダアキです」、カンダナ語を話すチャンドラ・ニーナサムが「ルディ(ナーヤルの愛称)です」と名乗る(英語とカンナダ語は字幕あり)。三名の俳優はそれぞれ日本やカースト制度についての自身の関わりを語っていく。その会話から、チャンドルはインドの不可触民の出身、武田は大阪の出身、そしてルディは上位カーストの出身とわかる。続いて、三人は舞台の中央へ移動し、演説原稿を手にした武田(ルディ)が演台に上がろうとする。しかしマイクノイズのような音とともに歩みを止め、しばらく沈黙したのち演台から後ずさり「このテキストは自分から遠すぎる」として原稿をルディ(チャンドル)に渡そうとする。ルディ(チャンドル)は「私がこのテキストに立ち入ってはいけないのではと感じる」とソファセットの前から動こうとしない。緊張を含んだ沈黙を経て、チャンドル(武田)は「初めて読んだときまるで自分の言葉みたいだと思った」と語り、演台の正面にあるマイクの前に立つと静かに原稿を読み始める。
撮影:井上嘉和 撮影日:2022年12月11日 ©京都芸術大学舞台芸術研究センター
演説ではまず、アンベードカル博士が招待に応じたいきさつと基本的な姿勢が語られる。「ヒンドゥーは私を憎悪している」「私は彼らの楽園の中の蛇」、博士は自身の存在をこのように形容し、不可触民を「異質」で「排除」すべき他者とするヒンドゥーの前提に触れた上で、「私にできることは自らの見解を提示するだけ」と述べる。続いて、不可触民が受ける差別の実態が語られる。不可触民は、常に印である黒い紐を身に着け、足跡を掃く箒や唾を吐く壺を持ち歩くよう義務付けられ、生きるのに必要な井戸、食事、着衣、教育などあらゆる点でカースト者と「接触」しないよう細かくルールが定められている。カースト者と「接触」すると、その報復として暴力や破壊行動などが不可触民を襲う。
演説の朗読は、合間に俳優同士の対話をはさみながら進む。対話は演台から降りた場所に設置されたソファで行われ、話し終わるとまた次の俳優が原稿を手に演台へ上っていく。多角度からカーストの非人道的な差別の実態とその廃絶を訴える演説は、[演説の朗読→俳優同士の対話]を繰り返しながら次第に具体性に満ちた内容へと進む。「無関心は人々を毒す最悪の病気」「カーストの撤廃には手段や形式ではなく観念の改革が必要」「間違っているのはカースト観念を教え込む宗教そのもの」とし、最後はカーストを神聖なものとする「宗教=シャーストラ(経典)」こそ誤りだとの見解に到達する。この部分は武田(ルディ)が朗読し、「その権威を否定する勇気を示せるでしょうか」と静かに客席に語りかける。
俳優三人は演台から降り、「この演説が長くなりすぎたこと」(すべて朗読すると三時間近くかかる)への詫びと、「意見が変わるか否かはあなたたちの問題」と述べる。そして「内側からの力を持たずして成し遂げられたスワラージ(革命)はヒンドゥーにとって隷属への第一歩となる」という印象的な一文を残し、本公演のタイトルでもある「さようなら、ご成功を祈ります」で締めくくられる。
演説が終わると、三人の俳優は舞台の中央でそれぞれの本名を名乗り、幕となる。
撮影:井上嘉和 撮影日:2022年12月11日 ©京都芸術大学舞台芸術研究センター
1 「役の交代」が開く「可能性」へ向かう「他者」
本作の最も大きな特徴は「役の交換」とその効用と言えるだろう。女性であり日本人の武田がアンベードカル博士と同じ不可触民出身チャンドルの、ルディはその武田の、チャンドルは同じインド人でありながら心理的距離は遠いかもしれないルディの声を届けるのだ。
さらに、語る俳優の母国語はそのままであるため、チャンドルの言葉が日本語で、武田の言葉が英語で、ルディの言葉がカンナダ語で語られる。
この「役の交換」について、共同演出として本作の演出を担当したインドの演出家シャンカル・ヴェンカテーシュワランと日本の若手演出家和田ながらは、「他者をまっとうに必要とする」ことによって、「他者の身体に映る自らの姿を見出す」と演出ノートの中で説明している。アンベードカル博士の演説『カーストの絶滅』は、本作では鏡のように作用していて、その鏡に映る俳優は「自分が何者であるか」を他の俳優の身体を通して語ることになる。「役の交換」によって俳優の本名と語る言葉の接点はいびつになり、作品により深い奥行きと陰影とをもたらしてもいる。
演説の読み上げは、必然的にそれをいかに自分の言葉として発するかを俳優たちに問いかけており、その問いは「役の交換」によってさらに複雑になる。他者をひとつの手段として用い、捉え直し発せられた言葉は、劇場空間の中で観客へ向けられる。その声は、「異質」で「排除」すべき他者、自己と対立する他者ではなく、自らの中に新たな「可能性」を拓く「他者」の「声」である。さらに[朗読→俳優同士の対話]というルーティーンを繰り返すことで、俳優たちはそれぞれのあいだにある「淵」を確認しあう。その「淵」は、観客の足元の「淵」へと静かにつながっていき、気づかなかった、あるいは目を背けてきた観客の「淵」をも映し出す。カースト者と不可触民との「接触」を抑制する目的でガンディーが示す「カーストによる差別には反対だがカースト制度自体は容認」する姿勢にアンベードカル博士は否を唱えるが、それは我々がカーストの残酷さを知りながら、同時にカーストを愛してもいる事実を逆説的に浮かび上がらせている。
「他者」の言葉を声に出してみる、その実践的体験を通して自身の言葉を見つける、この「役の交換」は客席に「他者」の世界に観客として足を踏み入れる意味を問いかけてくる。足元に漂う「淵」=差異は、その「淵」が抱えるまだ見ぬ世界を「他者」の視点から捉え、「他者」の「声」の先に、自身の「可能性」を拓く機会をもたらしている。
撮影:井上嘉和 撮影日:2022年12月11日 ©京都芸術大学舞台芸術研究センター
2 太田省吾の気配
本作のもうひとつの特徴に、演出家ヴェンカテーシュワランや和田が影響を受けたとされる太田省吾の影響が挙げられる。特に劇中に幾度となく表れる「水」と「沈黙」の存在は、2008年にヴェンカテーシュワランが演出した『水の駅』との関わりを強く印象付ける。
演説の合間に、出演者は舞台中央のソファセットに集い、互いのグラスに水を注ぎ、それを飲みながら意見を交換しあう。この光景は日本ではごく当たり前だが、カースト社会では不可触民とカースト者が同じ水差しの水を飲むことはない。水差しの水はグラスに注がれると各々の水へと変わる。グラスが持つ水を「隔絶」する役割が浮かび上がり、それは一人一人が抱える見えない壁を連想させる。「隔絶」が破られたとき、水は俳優たちの足元に広がり客席にも流れてくる「淵」であり「世界」にもなる。同じ水差しの水を飲む俳優たちは、その「世界」を自らの中に取り込んでいるかのようにも見える。
撮影:井上嘉和 撮影日:2022年12月11日 ©京都芸術大学舞台芸術研究センター
また、「沈黙に語らせる」太田の手法は、強い存在感を放つ。その一例が、アメリカのIT企業においてインド人上司が新しく入社したインド人のカーストを確認するシーンだ。バラモンの上司(チャンドル)はチャンドラ(武田)の肩に触れ黒い紐の所在を確認した後突き飛ばし、手をはたくような仕草をする。演じた二人は見ていたルディ(武田)に日本の部落差別も似たようなものなのかと二度問うが、ルディ(武田)は何かを言いかけようとしながらも、言葉を発さない。また、カーストの外にいるとされる女性の存在に言及される場面で、チャンドル(武田)と武田(ルディ)は「この演説が実現したとして、聴衆の中に女性はいたのだろうか」「ここにいない人のことはどうやって気づいたらいいんだろう」と話し合う。さらに、チャンドル(武田)は結婚から6年経った今も義母がチャンドル(武田)のカーストを知らないと話す。武田(ルディ)は「もしお義母さんに知られたらどうなるの?」と聞くが、チャンドル(武田)は複雑な表情で黙したままだ。
部落差別への質問を前にした武田(ルディ)の沈黙は、大阪出身でありながら部落差別について説明できるだけの見識を持たないと受け取ることもでき、それは「隔絶」よる「無知」という新たな差別への繋がりを予感させる。一方その沈黙からは、言葉にするのに時間を要する「語りにくさ」も見える。チャンドルの義母はすべてを知りつつ語らない選択をしているのかもしれない。沈黙は異なる母国語を持つ三人にとって共通の「言語」でもあり、語るのに困難な現実を受容し、言葉が立ち上がるまでの時間を待つ思慮を我々に求めてくる。同時にチャンドル(武田)が問う「不在」への認識からは、様々な生活上の背景から本上演に立ち会えなかった人が抱えているかもしれない「沈黙」が浮かび上がる。
太田が提唱した「沈黙劇」は、「声」にならない「声」に耳を澄ませ、見えていないもの、ここにいない人の姿を想起させる。それは聞こえている、見えている「他者」の先にある、さらに「多」なる「他者」へとつながろうとする姿勢でもある。本作において、アンベードカル博士の差別の廃絶への訴えは、その中にいながらカーストのシステムを「疑い」直し、新たな「他者」としての関係性を開く「窓」へ向かう言葉として捉え直されているが、その「窓」の下には、太田省吾の気配が「不在」を超えて漂っている。
3 「多」なる「他者」との応答
現代の日本社会には、インドのカースト制度のような差別は少ないかもしれないが、一方で確実に進んでいる貧困や格差の中で「沈黙」せざるを得ない人々の存在に、気づく機会すら失われている実態がある。また、周囲を見渡してみると家庭の中での夫婦関係や親子関係、職場、友人同士、学校、地域社会など、日常のあらゆる場所で「誰かを支配しようとする」力はむしろよく見かけていることにも気付く。その力は「家族だから」「母親だから」「男だから」「独身だから」「恋人だから」「管理職だから」「先生だから」「演出家だから」、さらには「役割だから」「伝統だから」「それが普通だから」など様々な理由を盾に正当化され、見えない「シャーストラ(経典)」として日常生活の中に横たわり、「声」を封じ込める蓋になっている。身近な蓋による「抑圧」はけして個人的な問題にとどまらず、社会に新たな差別を生む力へとつながっていると、この演説は静かに警鐘を鳴らす。演説の最後でアンベードカル博士が求めた「内側からの力」とは、自分の常識や正義、善意や愛情を「疑い」直す力にほかならないだろう。
本公演の最後にそれぞれの本名を名乗る俳優たちの様子は、拓かれた世界への「窓」の前に立つ清々しい空気をまとっている。「窓」の外には、さらに新たな「可能性」を持つ「多」なる「他者」が待っていて、その「多」くの「他者」との間で交わされる「応答」は世界の響きの一部となる。我々はその「多」なる「声」による「応答」を「異質」で「不秩序な響き」ではなく「豊かなあるべき響き」と捉えられるだろうか。アンベードカル博士は、「多」なる「声」が「響きあう」世界の中で、それぞれの「淵」を内包しつつ、ともに生きる道を諦めない力=希望をこの演説に託したのだろう。その希望に至るまでの途方もない絶望を想うとき、「他」や「多」を抑圧と統御によって支配する力を問い直す「声」や「言葉」を上げ続け、同時に「他者」の「声」と「沈黙」に耳を傾け続ける必要に気づく。
「内側からの力」を持つ社会の成熟に必要な「疑い」を持てているか、多くの可能性と同時に困難をも抱えるだろう豊かな世界への希望を諦めずにいられるか、「多」なる「声」が「響きあう」世界への「窓」の前で「演劇」は「芸術」はどんな「他者」であり得るか、私たちの足元には多くの「応じ続けるべき問い」が残されている。
撮影:井上嘉和 撮影日:2022年12月11日 ©京都芸術大学舞台芸術研究センター
伊藤愛 Ai ITO
国立音楽大学声楽学科卒。音楽修士。日本演劇学会会員。2013 年から世田谷パブリックシアター主催「舞台芸術のクリティック」に参加。『宝塚イズム』(青弓社)、『 act guide』 (東京ニュース通信社)に、劇評や紹介記事を発表。論考に 「新しい“悲劇”を紡ぐ演出家(ひと)」( 『舞台芸術』 25 号、 角川文化財団、2022年4月)など 。