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「サミュエル・ベケット映画祭2024」オープニングイベント
第二部 やなぎみわ×岡室美奈子×小崎哲哉(司会)

京都芸術大学舞台芸術研究センターならびに早稲田大学演劇博物館の連携プロジェクトとして、2024年度に『疫病・戦争・災害の時代にーサミュエル・ベケット映画祭2024』を開催し、サミュエル・ベケットの代表作の映像を東京と京都で上映しました。
 本記事では、11月23日(土・祝)に京都芸術劇場 春秋座で開催したオープニングイベントでのトークセッションの採録を公開します。
 第二部では、第一部に引き続き美術作家・舞台演出家のやなぎみわさんにご登壇いただくとともに、日本におけるベケット研究の第一人者である早稲田大学文学学術院の岡室美奈子教授をお迎えし、第一部の内容を受けてフリートークが展開されました。司会は本学大学院の小崎哲哉教授です。
(編集:京都芸術大学舞台芸術研究センター 舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点)


小崎 第二部を始めたいと思います。第一部に引き続いてやなぎみわさんにご登壇いただきます。やなぎさんどうぞ。

やなぎ登壇。

小崎 岡室美奈子さんにもご登壇いただきます。岡室さんよろしくお願いします。

岡室登壇。

小崎 岡室美奈子さんはベケット研究の日本における第一人者で、早稲田大学演劇博物館の前館長です。ベケットのみならず、テレビドラマについても非常に素晴らしい文章を書いていらっしゃって、最新刊は『テレビドラマは時代を映す』。これが大変に面白いので、ベケットについての文章と両方ご覧になると岡室さんの幅の広さが分かるんじゃないかと思います。
 私は2013年に「あいちトリエンナーレ」のパフォーミングアーツ統括プロデューサーを担当しました。ベケット作品やベケットに関連する作品を中心にプログラムを組んだのですが、その翌年に岡室さんが中心になって早稲田大学演劇博物館で「サミュエル・ベケット展」が開かれました。ベケットの一連の作品、および日本におけるベケット作品の上演史を中心にしたもので、そのときのシンポジウムに私も呼んでいただいて、いろいろな方とお話をしました。そのときに初めて会った多木陽介さんをお呼びして、ここ春秋座で2019年に「没後30年―サミュエル・ベケット映画祭」を開いたという経緯があります。
 岡室さんは「瓦礫の上で待ちながら――ベケットと共生の思想」という文章をお書きになっています。ベケットは中立国アイルランドの出身だったので第2次世界大戦には参戦していませんが、アイルランド赤十字の補給部隊員兼通訳に志願して、戦災で「瓦礫の山」と化したフランスの町サン・ローの仮設病院で、傷病兵や被災者と関わった体験があります。『ゴドーを待ちながら』など、戦後の創作の原点になったと言われる衝撃的な体験で、それについて書かれた文章です。
 映画祭を企画するに当たって、岡室さんをはじめ早稲田大学の方々とテーマについて話し合い、「疫病・戦争・災害の時代に」というサブタイトルを一緒に考案しました。ベケットの死後、パンデミックが起こったり、戦争が相次いだり、気候変動によって自然災害が頻発したりしていく。こういう時代にこそベケットは見られていいんじゃないか。というよりベケット自身がそういう悲惨な状況を原点としていた。そのことについての文章なので、お読みになることを強くおすすめします。
 第二部はフリートークなんですけれども、まず最初に、第一部をお聞きになったご感想を岡室さんに伺ってもよいでしょうか。

岡室 早稲田大学の岡室と申します、どうぞよろしくお願いいたします。実は5年前に小崎さんがベケット映画祭をここで開催されたときにも登壇する予定だったんですが、体調を崩して来れなくなっちゃったんですよね。なので今回はリベンジで参加させていただいています。

 やなぎさんと小崎さんのトークは、ずっとこのお二人に喋っていただいた方がいいんじゃないかと思うぐらい面白かったです。私は全然第一人者じゃないですけどベケットが専門なので、ベケットと絡めた感想をお話します。
 小崎さんがプロデュースされた「あいちトリエンナーレ」で『ゼロ・アワー』は拝見しました。小崎さんと初めてお目にかかったのも「あいちトリエンナーレ」のときです。今ご紹介いただいた岩波の『文学』に書いた文章も2013年頃、まだ東日本大震災の記憶が生々しい頃に書いた文章ですので、そういうつもりで読んでいただければと思います。
 2013年に『ゼロ・アワー』を拝見したときもすごく面白かったんですけれども、演出の変化を経て、今回新たに映像で拝見させていただいて感動を新たにしました。やなぎさんが「匿名の声」にそもそもご興味があったというお話をされましたが、『ゼロ・アワー』はもちろん演劇作品ではあるものの、ラジオが主題なわけですよね。私はよく「ラジオの幽霊性」という言い方をするんですけど、ラジオは声だけだから「語る主体」、あるいは「語る身体」と声が切り離されたメディアですよね。この作品でも「語る主体」と声が切り離されているからこそ、誰が東京ローズだったのかという謎が一つの軸となっているわけです。
 普通私達は「私が喋っている」という事実になんの疑いも持ちません。そもそも「語る主体」としての「私」ってすごく近代的な考え方だと思うんですけど、ベケットはその「語る私」を疑う人なんですね。やなぎさんとも非常に繋がりの深い作家の中上健次が「語りの複声性」ということを言っていて、語りというのは集団的なものだという言い方をするんです。「私」が語っているんじゃなくて私の背後に歴史とか人々の記憶とか様々なものが堆積していて、それが「私」に語らせているという考え方です。それが例えば濱口竜介監督やその作品の『ドライブ・マイ・カー』にもすごく大きな影響を与えているんですよね。ベケットもそういう考え方をしていたんじゃないか。それは多分アイルランドの先輩のW・B・イェイツらの影響もあると思うんですけど、語る主体を疑うという意味で、ラジオというメディアはベケットにとっても実は重要なメディアだったと思うんです。
 例えば東京ローズにたくさんアナウンサーたちが出てきますよね。舞台上には5人の女性が出てきて、それぞれにラジオで音声を戦場に送り届けていた。じゃあ彼女たちは語る主体だったかというと、実は彼女たちは与えられたテキストをただ読んでいるだけなんですよね。自分が主体的に語っているわけではなくて、ある意味で彼女たちは本当に声だけに還元されちゃうような、言ってみれば霊媒みたいな存在なんです。他者の言葉を自分の声を通して語るだけの存在で、潮見という人だけが自分でテキストを書いて、それを語っていた人だということが分かってくる。じゃあ潮見は主体的に語っていたかというと、潮見の声もテープレコーダーの早回しで機械的に加工された声なんです。だから潮見の声も潮見の身体から切り離されていて、声と起源が分離している、起源がどこにあるのかよく分からない声なんですよね。だからこそ東京ローズは誰かを探す物語がすごくスリリングで面白いんだと思います。それはラジオの特性というものをやなぎさんがとても巧みにこの作品の中で使ってらっしゃるからだと思うんです。
 ラジオはそもそも船などで使われてきたメディアです。海で亡くなる人もたくさんいたので、そもそもラジオというメディアは亡くなった人や幽霊と結び付けられがちで、ベケットもその特性を利用しているわけです。私達は、ラジオというメディアの向こうで誰がしゃべっているのかわからない。そもそも喋っている人は存在するのかすら定かではない。
 ベケットには『わたしじゃないし』という作品があって、口だけが舞台上に見えて洪水のように言葉を喋っているんです。これも、普段私達は「私」が喋っていると思っているけど喋っているのは「口」だよねという話なんです。そういう「誰が語っているのか」という語りの根源的な問題にベケットはすごく関心があったし、『ゼロ・アワー』もそうしたベケット的な視点から見るとすごく面白い。もちろんベケット的に見なくてもすごく面白いんですけど、そういう語りの主体は誰かという視点からも見ることができる。『ゼロ・アワー』でも、そもそも語る主体じゃなかったアニーさんという人が罰せられていくわけですよね。そういう点でもすごく興味深い作品だということを改めて思いました。うまく喋れたかどうか分からないんですけど。

小崎 いやいや、ありがとうございます。確かにやなぎさんは中上健次作品を取り扱っておいでになっていて、中上とベケットってパッと聞くと全然結びつかないようでありながら、声という点で何か繋がるということはあるかもしれないですね。

やなぎ そうですね。新宮の被差別部落のおばあさんたちが旅立って伊勢、諏訪、恐山、そして最後皇居で行方不明になるという旅物語『日輪の翼』を野外劇でやっています。
 中上健次は老女たちの声をテープレコーダー、それこそカセットテープで集めています。家を一軒一軒回って、若いときにどういう経験をしたか聞き取りをしたテープがたくさん残っているんですよ。おばあちゃんたちが若いときに、非常に貧しくて紡績工場に働きに出る、出稼ぎ先でいろいろ大変なことがあって、遊郭に騙されて売られちゃったりとか、本当に波乱万丈な話が、路地の言葉で淡々と語られる。『日輪の翼』をやるときは、そのテープを聞きました。俳優たちに「オバらは文字が読めないので脚本は読まずに何とかセリフを言えないのか」と言ったら、「それは無理」と怒られましたけども。俳優さんに脚本を見ずに口承でやってくれなんていうことは、それは昔の能や歌舞伎だったらそうだったかもしれませんけども、今の現代劇の俳優たちには難しい。それでも「オバらが脚本を読んでいる」ということにすごく抵抗があった。文盲でなければならないのに…そういう顛末がありました。

岡室 今のお話も面白いですね。濱口竜介監督が『ドライブ・マイ・カー』の前に酒井耕監督と一緒に「東北記録映画三部作」というドキュメンタリーを作っていて、『うたうひと』という作品の中で、小野さんという語り部の方を取材するんですよね。小野さんが中上健次の話を濱口監督に伝えたらしいんですけど。濱口監督は「語りというのが単に集合的なものだけじゃなくて聞かれることが大事だ」と言うわけですね。聞く人がいて初めてそこで語りというものがパフォーマティブにその場で生まれ直していく、そういうようなことを言っています。
 この『ゼロ・アワー』でもやっぱりラジオを聴く人たちがいるということがすごく重要なわけですよね。受け手の人がいることによって、声の操作によって生まれた東京ローズという存在が実体を伴っていく。声が人を存在させる…そこがすごく面白いですよね。

やなぎ 聞いている兵士の方も、男ばかりの船の中で、しかも夜にみんなですごく集中して聞いているというかなり特殊な状況なんですね。そこで彼らの中でどんどん妄想がふくらんで、「エンペラーよりも東條英機よりも会いたいのは東京ローズ」という、思い入れが深くなってしまう。やっぱり聞き手あってこその声というのはあると思うんです。

 私は実は日本舞踊をちょっとだけやるんです。能楽の方に聞かれたらすごく恥ずかしいからあんまり言いたくないんですけど、昔「老い」というテーマの展覧会があって、そこで何か踊りを舞ってほしいと言われて『関寺小町』を舞ったことがあります。『関寺小町』は百歳になった小町が出てくる、本来は能楽で、それを日本舞踊にしたものです。
 おばあさんの格好をして腰を折って、破れ笠と杖を持って舞ったんですけど、そのときに、これは誰のために舞っているのかと…暗闇を前にして百歳の小町が語ってるような、虚無感のようなものに襲われました。元々は能楽で『卒都婆小町』『鸚鵡小町』『関寺小町』など、小町モノとよばれる作品のひとつ。シテの小町が舞っているときには、必ずワキが居るのですが、日本舞踊ではワキを省いてしまって、シテの老小町しかいない。それでは、そもそも老小町は「語らない」のではないかと。それでやはりオリジナルの能楽に興味を持ちましたね。

小崎 『関寺小町』というのは、百歳になった小野小町が、かつての自分はものすごく美しくて、華やかな人生を送っていたのに今や……という話ですよね。要するに、バブル期にイケイケだったお姉さんが年を取って昔を懐かしむというような(笑)。

やなぎ 物乞いみたいなことをしてね。深草少将のいた華やいだ頃を思い出すと、ちょっと若返る。若返って、しばし華やいで舞うんですけど、やがてまた元の老女に戻って「百歳の我が身の恥ずかしや」と恥入りながら去っていくという、それだけなんですけども。でもそれはね、やっぱり聞いてくれる人がいないと語れないと思いますよ。

岡室 さっき言ったベケットの『わたしじゃないし』も舞台上に口だけが出て、バーって言葉を喋るんですけど、実は「聞き手」と呼ばれる人物が聞いているのを観客は間接的に見ているだけの作品なんです。これをBBCがテレビ化しているんですけど、テレビ化したときには「聞き手」がいないんです。じゃあどうやって処理したかというと、口がちょっと斜めになっているんです。口が画面いっぱいにクローズアップになるんですけど、実はちょっと斜め向いていて、「画面の前のあなたに向かって喋っているんじゃない」というメッセージを送っているんですね。
 正面で見たいと思ってテレビの画面とか向き変えたりするんだけど、当然私に向かっては喋ってくれないんですよね。だからBBCの処理も面白いなと思いました。誰かに向かって喋っているんですよね。

小崎 台本の指定だと聞き手がいるということになっているんですよね。

やなぎ 能ではワキが先に出てくるじゃないですか。旅僧だったりお坊さんだったり諸国一見の僧のような聞き手が出てくると語り手が出てくるという。つまり聞き手に呼ばれて語り手が出るみたいなところはありますよね。

岡室 そうですね。もちろん能はイェイツに大きな影響を与えていて、ベケットもイェイツ経由で影響を受けているんじゃないかというふうなことを、高橋康也先生が『橋がかり』という本の中で書かれています。能の中でも特に夢幻能ですが、ひょっとしたらベケットにもそういうが影響あるのかもしれないですね。

小崎 現代アートの父といわれるマルセル・デュシャンが面白いこと言っているんです。「見る者を見ることはできるが、聞いているのを聞くことはできない」と。例えばやなぎさんが岡室さんを見ている、それを僕が見ることはできる。でも、やなぎさんが岡室さんの話を聞いているのを僕が聞けるかというと、「見る」という動詞と「聞く」という動詞の守備範囲の問題だと思うんですが、それは原理的に不可能であると。だけど、ベケットの『クラップの最後の録音』とか、やなぎさんの『ゼロ・アワー』を見ていると、聞くのを聞いているような気持ちにさせられます。

岡室 まさに聞くのを見ている、声を見るみたいなね。声って聞くものだけど声を見るみたいな感覚がありますよね。

小崎 『クラップの最後の録音』はぜひ皆さんにご覧いただきたい。その後で『ゼロ・アワー』を見ると「なるほど」と思うところがあるはずです。

岡室 『クラップの最後の録音』はテープレコーダーがまだ一般家庭にそれほど普及してなかったときに、ベケットは近未来物として書いているんですね。30年前からテープレコーダーあったという体でクラップが過去の自分の声を聞くんですけど、でも過去の自分というのはもはや他者なんです。だから舞台の上にいる自分と過去にテープレコーダーに向かって語っていた自分というのがもはや一致しない。これもやっぱり「語る主体」が疑われていく作品で、そうやって声に還元されちゃう人の身体というのも、面白いですよね。

小崎 ベケットには、『ねえ、ジョー』もそうですけれども、舞台上にいる俳優は全く喋らずに、どこかから声が聞こえてくる作品がある。それは母親だったり、昔の女だったりとかいろいろですけれども、でもその声の主はどこにいるんだろうというのが問題になりますよね。

岡室 そうなんですよね。だからベケットにとって俳優という存在もちょっと霊媒的な、劇作家の言葉を霊媒のように自分の声を使って語るような存在だったんじゃないかという気がするんですね。そういう意味で『ゼロ・アワー』に出てくるアナウンサーたちも自分のテキストじゃない、他者が書いたテキストを自分の声で語る霊媒的な存在なんですよね。なのにそこに主体性を押し付けられちゃう話とも言えると思います。その点でベケットに繋がるところがあると思いました。

小崎  『ゼロ・アワー』の登場人物の潮見俊哉がダニエル山田という日系の米兵から「天皇の玉音放送はお前がやったんじゃないか」と問い詰められる場面があります。「やった」というのにも二つ意味があって、「担当した」じゃなくて「本当に(潮見自身が)読んだんじゃないか」みたいな問い詰め方でもあるわけですね。

やなぎ そうですね、玉音放送の声というのも、いろいろ考えさせるというか、ラジオだと音声が不明瞭ですよね。『ゼロ・アワー』でもラジオがたくさん出てきますけど、どれもあまり音質が良くなくて非常に判別しがたい。玉音放送の声も曖昧だし、6人の東京ローズの声もどれも曖昧で、それゆえに最後、サンフランシスコ裁判では、不明瞭であるということで証拠不十分になります。声の不明瞭さゆえに、オリジナルかも分からない、起源が分からない。そこは意識して作りました。

岡室 そこもすごく興味深いところで、ラジオという機械を通すことでいっぱいノイズが入ってくるわけですけど、人間の耳や目の感覚ってすごく選択的なんですよね。例えば、いま私の視野にはこの劇場全体が入っているはずなのに、聞いてくださっている皆さんのことしか見ていない。あるいは耳を澄ませると空調の音が聞こえてくるかもしれないけど、基本的にやなぎさんと小崎さんの声しか聞いてないんですよ。
 だけど機械って全部拾っちゃうんですよね。全部拾っちゃうし、全部そのまま放送するからノイズが入ってくる。機械を通すことによって人間が選択的に捨ててきたものが全部呼び起こされていくところがある。だから『ゼロ・アワー』でもずっとノイズが入っているというのが、ラジオというメディアを常に意識させられてすごく面白かった。

小崎 テクノロジーが進んで全部ノイズがカットされると、もしかしたら成立しないかもしれない。少なくともつまらないものになりそうです。

やなぎ 心霊写真の話にも繋がりますね。

岡室 言うのも恥ずかしいですけど早稲田大学で「オカルト芸術論」という授業をずっとやっていたんですよ。ダブリンで書いた博士論文は「ベケットとイェイツとジョイスにおけるオカルティズム」というのがテーマなんです。やっぱりベケットの作品ってすごく霊媒的なところがあって、イェイツなんかもずっと交霊術やっていた人ですから。
 今やなぎさんがおっしゃった心霊写真もまさにそうなんですね。ベンヤミンが言っていることとも繋がるんだけれど、人間の肉眼は選択的に物を見るけれど、カメラは機械の目だから、人間の目が見逃すものを全部写しとる。そこに人間が意識的に抑圧していたものが映り込んでくるような隙間がある。

やなぎ テクノロジーなのに、なぜかそこに仄暗いものを孕むという…、不思議ですけど私は好きなんです。

小崎 霊媒の「媒」って媒体の「媒」だし、英語でも「medium」「media」は霊媒という意味もあるわけです。というよりそっちが先でしょうかね、もしかすると。

岡室 人と霊的なものを繋ぐという意味での「medium」であり「media」ですからね。そういう意味ではラジオというメディアが、起源が分からない言葉や音を伝えるということが幽霊的なものと繋がっていくんだけど、やっぱりラジオというメディアの原初的なあり方のような気もするんですよね、そういうことが。

小崎 そういう意味ではラジオというのは本当にプロパガンダに適した媒体ですね。ノイズが入るというのもそうだし、どこから来るのか分からない。ベケットの新しいメディア好きは、プロパガンダを意識したかどうかは分かりませんが、何かその曖昧さ、うやむやさ、いかがわしさ、それは明らかに意識したでしょう。

岡室 新しいメディアは必ずオカルトを孕んでいくんですよね。例えばカメラが発明されると心霊写真ができたり、ビデオテープが出てくると『リング』という作品が出てきたりとか。ベケットが新しいテクノロジーが好きだったということって、多分そういうことと無縁ではないと思うんです。新しいメディアの闇の部分とかいかがわしさとか、そういうのをうまく利用していたんじゃないかと、ある種のホラー的な、大衆的な想像力を利用していたんじゃないかと思います。

小崎 今の状況の先駆けと言えますかね。新しいテクノロジーがどんどんポストトゥルースの世界、あるいはフェイクニュースも作っていく。ベケットが新しいテクノロジーから何か感じ取っていたというのは間違いない。

岡室 だからこの時代にベケットが生きていたらどんな作品を作ったかというのを知りたいですよね、本当に。

小崎 AIを使っているでしょう。

岡室 絶対使っていますね。例えばBBCでテレビ作品やラジオ作品を作っているんですけど、そこでBBCが新しい技術開発をしているんですよね。

やなぎ それは例えばどういった…?

岡室 例えばラジオ作品『オール・ザット・フォール』では珍しくベケットの故郷が舞台になっていて、動物の鳴き声とかいろんな音が出てくるんですけど、そういうものを人工的に作るとか。ベケット自身がテレビやラジオの技術開発させたところもあって。

やなぎ レジスタンスの活動していたときに、ラジオに関わっていたりもしますか。

岡室 特に関わっていたということはないと思うんですけど、『オール・ザット・フォール』をフランスで聞こうとしてうまく聞けなくて、放送局に出かけていったらテープレコーダーというものを初めて見て、面白いと思ってすぐに『クラップの最後の録音』を書いたみたいな…そういうアンテナの立て方というか感の良さはあるんですよね。

小崎 『クラップの最後の録音』でも、最近は放送局に行かないと見ないような巨大なオープンリールのテープレコーダーがかなりインパクトありますね。

岡室 若い方は見たことないですよね、オープンリールのテープレコーダー。大体カセットテープすら見たことないんじゃないですかね。
 濱口監督の『ドライブ・マイ・カー』でもカセットテープ使われていて、カセットテープから亡くなった奥さんの声が聞こえてくるんですよね。多分ディスクでは駄目で、やっぱりテープから聞こえてくるということが大事なんだろうという気がするんですよね。

小崎 繋がりが目に見えるじゃないですか。つまりハードディスクっていわばブラックボックスで、今仮にこの声を録音していたとしても自分の声がどこにあるか分からない。でもテープだと、編集で物理的に切ったり貼ったりする。長いテープのどこにどの声が入っているというのが分かるというのが大きいんじゃないですか。

岡室 物質的ですよね。

小崎 だから『ゼロ・アワー』でも、チェスボードを舞台面にプロジェクションするのと同じように巨大なテープレコーダーが…。

やなぎ あれは…『ゼロ・アワー』ときの日本に無かったかもしれないし、あったかもしれない、調べたんですが微妙なんですよ。ドイツ製のものが日本に輸入されてあったということにしてあります。

撮影:清水俊洋

 

岡室 あの巨大なテープレコーダーがあって、潮見の声ができていくじゃないですか。東京ローズの声に変換されていくシーンも、すごくいいですよね。

やなぎ 本当にできたかどうか分からないんですけどもね。それをやったという設定。

小崎 あのときはフォルマント兄弟が…。

やなぎ そうですね、初演のときにフォルマント兄弟に参加していただいて。

小崎 三輪眞弘さんと佐近田展康さんという現代音楽・現代アートにおいて重鎮的な存在になりつつある2人がユニットを作り、面白いことをいっぱいやってるんですけど、やなぎさんはそのときに一緒に…。

やなぎ あのときに色々とボコーダーの事とかを教えていただいて、初演のときはローズの声を作っていただいたと思いますね。

小崎 ボコーダーだというのもベケット作品に何か通ずるところがありそうですね。声の質を変えてしまう。

岡室 喋る身体からどんどん切り離されていくわけですよね、声を変えてしまうことによって。ベケットも知っていたら使ったんじゃないかという気がしますけどね。

やなぎ ボコーダーはライブで変換できるのでよく使いましたね。『ゼロ・アワー』だけじゃなくて、その前の『1924 人間機械』でも、案内嬢たちが喋っていたらだんだん男の子になっていくというのをやりました。モホリ=ナジ・ラースローが、なぜかドイツから国際電話で村山知義に指示を出すというシーンがあるんですね。構成主義を日本に実現しろみたいな命令を出して、村山知義がふっと頭が沸騰して構成主義的な舞台を作っていくというシーンがあるんですけど、モホリ=ナジがドイツ語でずっと語りかけるけども、だんだんとなぜか岸田劉生の声に変わっていったり…。案内嬢たちが始め女性の声やっていて、電話交換手をやっていたらだんだん声がおかしくなっていくとか、そういったこと試みました。

岡室 誰が喋っているか分かんなくなるということですよね。

小崎 20年代だと、ラジオがカッティングエッジな技術だった時代ですね。

やなぎ そうですね、関東大震災の直後なので、ちょうどラジオの始まったぐらいのときですよね。あとは電話も電話交換手がいて、声を取り次ぐということも面白いですし…。新しいメディアとしての声を、『1924』三部作ではよく使っていますね。

岡室 ベケットがいた頃は「声」と「語る主体」をいかに離していくかでいろんな実験がなされたけど、さっき小崎さんおっしゃったように、今フェイクなものがいっぱい出回ったりとか、誰が喋っているか分からないということがすごく大きな問題ですよね。起源と声が切り離されていることが、ベケットは予想してなかったと思いますけれども、ちょっと違う相貌になっていますよね。

小崎 ベケットのもう一つのモチーフの一つに、匿名性があります。典型的なのは小説三部作『モロイ』『マロウン死す』『名づけられないもの』。一応繋がっているようで繋がってないかもしれない作品群で、語り手がどんどん変わっていくんです。最初にある語り手がいるんだけれども、その人は自分じゃない人格に乗っ取られるというか、移っていくというか…。声の複層性、あるいはやなぎさんがエレベーターガール、案内嬢や『ゼロ・アワー』のアナウンサーたちに託しているものにオーバーラップして見えます。

やなぎ 案内嬢たちが狂言回しというか、主体性がない霊媒みたいな声でドラマを回すというのが私は結構好きで。もちろんドラマを演じる俳優たちもいるんですけど、さらに外側にもう一つ二重構造の世界があるというものに惹かれてやっていましたね。

小崎 岡室さんはベケットの声にまつわる作品だとどの作品がお好きですか。皆さんにお勧めするとしたら。

岡室 ベケットはラジオドラマもすごく面白いんですよね。ラジオだとさっき言った『オール・ザット・フォール』がすごく好きです。ミセス・ルーニーという人が主人公で、表面的にはベケットの故郷のアイルランド・ダブリン郊外のフォックスロックという土地が描かれる、一見のほほんとした感じに聞こえるラジオドラマなんですけど、ひょっとしたらその全部が実はミセス・ルーニーの脳内で起こっていたことじゃないかという説もあって面白いんです。
 北アイルランドでラジオの方がプロデュースして、『オール・ザット・フォール』を朗読劇でやったのを見たんですけど、ものすごくエロいんですね。普通に戯曲を読んでいるだけでは全然そういうふうに思わないのに、俳優さんたちの演技と演出で、戯曲のエロさのポテンシャルが全開になって、こんなに性的な作品だったんだということが分かって、めちゃくちゃ面白かったです。
 ベケットは不条理劇でノーベル賞を取った高尚な作家って思われがちだけど、実はすごくエロいし、世俗的な側面があって。私は『オール・ザット・フォール』を訳しているんですけど、いかにそのエロさを醸し出すかということでだいぶ工夫をしました。
 高橋康也先生と安堂信也先生が出した『ベケット戯曲全集』は素晴らしい翻訳なんです。お二人とも翻訳の名手なので素晴らしい翻訳なんですが、格調高いんです。なので私が翻訳するときには、いかに原文の「格調低さ」を訳出するかということを考えて訳しました。そういうポテンシャルが声のみだからこそ通じる、開花するようなエネルギーを秘めていて、面白いんですよね。
 あと『残り火』、これもラジオ作品ですけど、海の音が出てくるんですね。それはさっき言ったように海とラジオが密接に関わっていたせいもあると思うんですけど、そこで死者の声が聞こえてきます。海、ラジオ、死者の声という、これらが本当に巧みに使われている作品です。

やなぎ 俳優の声を聞いてから文字にするというのもあります。自分で書いた脚本でも俳優の声を聞くと変えざるを得ないみたいな…。やっぱり声はそういう力を持っているとは思います。

岡室 面白いですね。

小崎 それは俳優の声に合わせて、この声だったらこういうセリフにするということですか。

やなぎ 「当て書き」みたいなことも起こり得ますけれども、発話してみないと分からなかったなみたいなことが度々起こりますね。

小崎 それに関連して言うと、「あいちトリエンナーレ」で劇団ARICAに『しあわせな日々』(ハッピーデイズ)を上演してもらったとき、ARICAの、いわば「座付き作者」とも呼べる詩人の倉石信乃さんが、全面的に訳し直しをしたんです。かなり画期的な訳で、オリジナルにあるカタカナの固有名詞を全部排除した。さらに、キリスト教的なニュアンスが色濃いセリフをキリスト教的でないものにしたんです。日本で上演し、主に日本人の観客に見せるんだから変えるべきだろうと。かなり斬新で、非常に面白いものでした。
 ARICAではいろいろ議論しながら作っていくそうですが、稽古のときに、主役の安藤朋子さんが倉石さんに「このセリフ、私は言えない、私が言えるように書き直してくれ」と強く主張したそうです。具体的にどのセリフかは聞いていませんけど、なるほどと思いました。やはり役者の声や発話法に合うかどうかが重要なんですね。

やなぎ いつかは新作能を作りたいという気持ちがありまして、今能楽の先生と一緒に予告編みたいな映像を作っています。
 私が書いた拙い謡は当然「うたいにくいです」と言われますので、そこは「うたいやすいようにうたってください」というふうに言いましたけども、やっぱり発話する人ってすごく強いですね。身体を持つ方が霊媒になるわけですが、演出としては何としてもこのセリフはこういうふうに言ってほしいという…、そこは最も駆け引きが起こるところで、難しいです。

小崎 『日輪の翼』でもオバたちが、コロスのようになるところもありますが、その部分の声の演出も大変だったでしょうね。

やなぎ そうですね。でもそこはオバたちにかなり任せました。どの演劇もそうだと思いますが、ある程度は俳優に任せる部分があります。絶対に任せないという方もいるし、全部俳優に読んでもらってから当て書きで書き直すという方もいらっしゃるけれども…。私は割と俳優の言うことはよく聞くタイプだと思います。俳優がそう言うのであればそうなんだろうと思いますね。

岡室 私は『ゴドーを待ちながら』とかいくつかのベケットの作品を訳しているんですけど、上演していただくときに稽古場に行くと、役者さんが何か言いにくそうにしている。私なんか気が弱い翻訳家なので「じゃあ直します」って言っちゃうんですけど、そうすると演出家の方から「いやこれは俳優が言えなきゃいけないから直さないでくれ」って言われたりもするんです。そこのせめぎ合いも面白いですよね。

やなぎ そこは常にせめぎ合うところです。言う通り全部直していたらグダグダになるというのは確かにある。それは声だけじゃなくて動きもそうです。ですから、どこかでけじめをつけてる必要がありますが、じゃあそのけじめって一体何だろうかみたいな…、ずっとそれは考えます。

小崎 難しいですね、「言いにくそう」というのは、もしかしたら『ゴドーを待ちながら』のラッキーのセリフですかね。

岡室 いや、ラッキーではないです。

小崎 ラッキーのセリフはものすごい長台詞で、しかも非常に難解な前衛詩のような凄まじいテキストです。訳す方も大変だし、発話すること自体も大変だと思います。でも、そこじゃないんですね。

岡室 ラッキーの長台詞がただ長いんじゃなくて運動があるということを私は思っていて、何か一生懸命いい事を喋ろうとするんだけどどんどん逸れちゃうんですよ。逸れては引き戻して逸れては引き戻してみたいな運動のリズムがあると思ったので、そういうふうに訳して楽しかったですね。
 網走刑務所で緒形拳さんと串田和美さんが上演した『ゴドー』を見たことがあるんですけど、そのラッキーの長ゼリフは本当に訳が分かんないのにそこで拍手が起きたんですよ。

小崎 収監者の人たちから。

岡室 そう、収監者の人たちから。すごく重い荷物を持たされてヘロヘロになっていたラッキーが、急にすくっと立ち上がって喋り始めたことが嬉しかったみたいなんですね。ただセリフだけを追っていても分からないことがベケットの作品では起こるなと思って新鮮でした。

小崎 演劇の醍醐味ですよね。優れた戯曲は読むのも楽しいですけど、やっぱり演じられると全然別のものになる。

岡室 そうですね。声の話に戻すと「ベケット映画祭」でいろんな作品ご覧になると思うんですけど『プレイ』の上映は東京だけですか。

小崎 そうです。

岡室 東京で『プレイ』という三人の役者が壺に入っている、アンソニー・ミンゲラが撮った作品を上映するんですけど、アラン・リックマンが出ているんですよ。アラン・リックマンって、ハリー・ポッターで活躍してらっしゃった…

小崎 スネイプ。

岡室 スネイプ先生ですね。『エンドゲーム』に出ていたマイケル・ガンボンもハリー・ポッターのダンブルドア先生です。そのアラン・リックマンやっぱり声がすごく良いんですよね。イギリスのベケット関連のイベントで生のアラン・リックマンに会ったことあるんですけど、本当に声が良くて。
 『プレイ』って3人いて、真ん中に男性がいて、両脇が愛人と奥さんなんです。どうも死後の世界で三角関係についてそれぞれが語るみたいな、結構下世話な作品で。ダメダメな夫なんだけど、アラン・リックマンがやるとすごく存在感があるんですよ、声の力で。京都のお客様は東京になかなか来られないかもしれませんけれども、『プレイ』もぜひ見ていただきたいです。

小崎 余談ですけど、岡室さんがベケットとテレビと両方評論なさっているのはとても面白くて。ものすごくハイブローなものから下世話なものまで…ということは言ってみれば森羅万象を押さえていらっしゃる。実は、岡室さんは若い頃に司馬遼太郎さんとアイルランドで会っていて、司馬さんは会う前から岡室さんの論文を読んでいて、なんて形容していたかな、「豪胆な」とか…。

岡室 「井戸の底に腕をのばして牛をつかみあげるような…」

小崎 そういう人を想像していたら、ダブリンのホテルで最初に会ったときにものすごく小柄でかわいらしいお嬢さんだったのでびっくりしたということを書いていますね。

岡室 言っていいですか、「床に落ちた視線をあわてて拾ってあげたくなるような、かぼそげな少女」と書いていただきました(笑)。

小崎 多分その幅の広さが、岡室さんの批評にも通ずるのでは…。

岡室 いやいや、司馬さんは小説家なのでそこはフィクションですよね。まるっきりフィクションで書いていただきました、親は喜んでいましたけど。

小崎 ベケットという人の中にすごく高尚な、つまり神に対する宗教的な思いから、ものすごく下世話なものまで入っているということですよね。

岡室 まさにその通りで、ベケットって古代から現代思想に至るような哲学思想に通じていた面もあるんですけど、実はすごく女癖が悪かったんですよ。これね、ジェームズ・ノウルソンの『ベケット伝』でもちょっと出てきますけど、スザンヌという奥さんがいたのに、バーバラ・ブレイというメディア関係で働いていた女性ともずっと亡くなるまで愛人関係で。バーバラ・ブレイも私は実際に会ったことありますが。ベケットってすごく容姿に気を使っていた人で、実はずっと晩年までダイエットしていたという話もあります。晩御飯サラダしか食べてなかったのは菜食主義ではなくて、ほとんどダイエットだったらしいんですね。だから実はベケット自身もわりと世俗的な人だった。
 「ベケット・インターナショナル・ファンデーション」というベケット研究の世界的拠点がイギリスのレディング大学にあるんですけど、その創設者で『ベケット伝』の作者のノウルソンにこないだ会ったときに、『ベケット伝』ではまだまだ書けてないことがあるから、死ぬまでにそれを出版するって言っていました。

小崎 すごい、裏版の日記みたいですね。

岡室 ただベケットって神格化されているのでやっぱりそういうことを書くと怒る人たちがいて、『ベケット伝』を書いたときにも友達を結構失ったと言っていましたけどね。

小崎 そうですか、でも事実なんですけどね。

やなぎ 『ゴドーを待ちながら』もやっぱり演じてもらって分かる俗っぽさというか…それは脚本を読んだときは全然気がつかなかったんですよね。
 私は全然脚本が読めてないなって本当に反省することが多いです。俳優が演じてくれて初めて気がついたとか、俳優の前で言えないですけど。そうだったんだというのは多々あります。

小崎 有名なエピソードがありますよね。ベケットは自分の作品の上演権や演出の仕方にすごくうるさかった人なんだけれども、囚人演劇は面白いと認める一方で女性の劇団が『ゴドーを待ちながら』を上演したいというと「とんでもない」と断った。それって女性差別じゃないかって言われると「何を言っているんだ。女には前立腺がないだろう」って答えたと。
 なぜかというと『ゴドーを待ちながら』の2人の主人公の内、片方がちょくちょく舞台からいなくなるんですよ。それはおしっこが近くて行くのであって、要は人物が年老いて障害を抱えているということが込められているんです。芝居の中では前立腺障害とは言わない。でもそこは、多分ベケットにとっては譲れない一線で。
 僕は女性が演じても全然OKだと思います。でも、ベケットの美学ではそれが許せなかったってことなんでしょうかね。

岡室 私はぜひやなぎさんのご意見を伺いたいと思うんですけど、やっぱり『ゴドーを待ちながら』って男性じゃないと成立しないような気もするんですね。というのは、こういう二元論的な発言はよくないかもしれないけど、ベケットの作品で女性が出てくるものって割とハッピーな気がするんですよね。『ハッピーデイズ』なんかまさにそうなんですけど、どんどん体が地中に埋まっていくのになんか楽しそうだったりするんですよ。大地母を連想させるというか、土に戻ってくみたいな感じがします。
 でも『クラップの最後の録音』なんて絶望の淵で終わるところがあるじゃないですか。ひょっとしたら『ゴドーを待ちながら』もベケットにとっては、女性だったら待たないんじゃないかという考えがあったんじゃないかという気がするんです。分かんないですけどね。

小崎 ベケットは母親との関係がいろいろ大変だった人ですよね。やなぎさんご意見いかがですか。

やなぎ 『ゴドーを待ちながら』を女性でやるって私もちょっと考えられないですね。それはちょっと違うような感じです。

岡室 過去には蜷川幸雄さんが演出された市原悦子さん・緑魔子さんバージョンとか、鴻上尚史さんが演出された毬谷友子さん・白石加代子さんバージョンとがあって素晴らしかったですよ、両方とも。素晴らしかったから一概に駄目とは言えないような気はするんだけど、でも何かやっぱり別のものになるような気はします。

やなぎ 「この世」とも「あの世」とも分からない境目のような場所でずっと佇んでいると、女性だと確かに待たないかもしれない、決断をするのかもしれないですね。

小崎 有名なコメディアンたちが何となくモデルにされているじゃないですか。チャップリンとか。そのイメージもあるんでしょうかね。

やなぎ 女性のコメディアンは非常に少ないですよね。『日輪の翼』をやるときにオバたちの中に一人プロのコメディアンに入っていただいていますけども、とっても数少ない希少な存在で。その方はロシアに留学して、そこで国立のところで習った、要するにコメディアンというか、道化師、アルルカンじゃなくて…

小崎 クラウン。

やなぎ そう、クラウンのコースを卒業した方でした。プロのクラウンでしたけど、女性のクラウンの存在、そこが関わっているのでしょうか。

岡室 ちょっと違う視点から見るとね、『ゴドーを待ちながら』書かれたのは、第二次世界大戦の直後なんですよ。第二次世界大戦の末期に、ベケットは激戦地のノルマンディーのサン・ローの赤十字病院で働いていて、本当に戦争の悲惨さを目の当たりにしているんです。
 コロナ以来考えていることなんですけど、『ゴドーを待ちながら』が書かれた頃に、カミュの『ペスト』が出るんですよ。『ゴドーを待ちながら』は『ペスト』の影響を受けてるんじゃないかって私は思っています。
 というのも『ペスト』の主題って待つことなんですよ、実は。つまり、ペストの感染が収まるまで待てなかった人たちが外に出ちゃったり旅行したりして感染を広めていくという話も出てくる。だから実は待つことってすごくポジティブなことなんだというメッセージが『ペスト』に込められているように思います。『ぺスト』の重要な主題っていかに加害者にならないかということなんですよね。いかに加害者にならないか、いかに人を殺さないかということで、それが第二次世界大戦をくぐり抜けたベケットに刺さったんじゃないかって思っています。
 だから『ゴドーを待ちながら』でも、何も大したことをしないで待つのはすごくネガティブなことに見えるけれど、待つことで加害者になることを回避してるんじゃないかという気もするんです。戦争って中心的な役割を果たすのは男性じゃないですか。その男性がいかに加害者にならないか、いかに「待つ」ということに自分を繋ぎとめられるかという話としても読むことができる気がするんですね。そういう意味でも、男性じゃなきゃいけなかったんじゃないか。もちろん女性が戦争に責任がなかったかというとそれは違う。でもやっぱり軍の中枢部の人たちや、戦争に向かって突き進んでいく人たちとの対比というのがあるんじゃないかなと思うんですね。

小崎 カミュの『ペスト』や、ベケットの『ゴドー』から何十年後に、ジョゼ・サラマーゴが『白の闇』という小説を書いていますよね。これもある種『ペスト』的というか、人の目が突然見えなくなってしまう病が伝染性を持っていて、ほとんど全ての人の目が見えなくなって、どうなるのか…という作品なんですけど、いま岡室さんのお話を聞いていて、両方を受けて書かれたものかなという気がしました。その中で1人だけ感染しなくて、ずっと目が見えている女性がいるんです。見えているってことがばれるとまずいので、それは夫にしか明らかにしていないんだけれども、相当重要な役割なんですよ。だから、もしかしたら今おっしゃっておられるようなことを考えて、書いているかもしれないなと…

岡室 面白いですね。コロナのときには『ゴドー』が私にとってはすごくリアルだったんです。自粛生活を強いられているのはネガティブに思えるけど、でもそれが感染を防いでいるわけです。だから待つことをいかに楽しむかって『ゴドー』のテーマでもあったと思うんですけど、コロナ禍での「家で踊ろう」とかね、すごく通じるものがあると思いました。

小崎 北野武監督の『ソナチネ』を見て、これって『ゴドー』だなと思ったことがあるんです。抗争の助っ人として沖縄に送られたヤクザの話で、小さな組の組長と組員が、いきなり相手の組に襲撃されて海辺の廃屋に身を隠す。最後に決定的なドンパチをやるまでの日をいかに潰すかっていう話で、海岸で相撲を取ったりくだらない遊びをやったりする。あの待っている感じが、何かに似ていると思ったら、そうだ、『ゴドー』だと思ったんですね。

岡室 ああ、それも面白いですね。

やなぎ コロナのときになかなか「待つ」というのが出来なかったなと思いますね。私自身も公演がずっと延期され続けていくというのを経験して、半年後にできる、やっぱりできない…とずっと遅延しているという。でも本当はそのときに『ゴドー』をやり続ければよかったなって思います。

岡室 でも演劇やっている人が待てないのって当たり前で、それはなぜかというと演劇が祝祭だからなんですよね。祝祭と待つことって対峙されるものであって、ベケットは本来祝祭であるはずの演劇に「待つ」という対極にあることを持ち込んだんですよね。だから新しかったんじゃないかな。

小崎 画期的ですね。そんな演劇はそれまでなかった。

やなぎ それは本当にすごいことだと思います。やっぱり舞台人はどうしても祝祭を作ろうとしてしまう…舞台の派手さや規模に関係なくやっぱり祝祭なんですよ。

岡室 人には祝祭が必要なんですよね、本来ね。

小崎 「声」に話を戻しますけれども、ベケット以前に、不在の何者かによって舞台上に発せられる声がフィーチャーされた演劇作品ってあったんでしょうか。

岡室 コクトーの『声』でしょうか。電話というのも不思議なメディアですもんね。喋っている身体と声が切り離されるメディアですから。

小崎 結局そこに何かしらのメディア、メディウムが介在するんですね。

岡室 そうですね。電話だったり、テープレコーダーやラジオで身体と声が切り離されていくというのは面白いですよね。自分の声を録音すると、私の声じゃないと思うという他者性の問題もありますしね。

小崎 響き方が違うから。

岡室 ベケットの『わたしじゃないし』をかもめマシーンという劇団が電話でやったんですよ。申し込むと電話かかってくるんですが、その電話を取ると『わたしじゃないし』のテキストを一方的に俳優さんが喋りかけてくるんですね。私はテキスト知っているから分かるんだけど、普通は訳が分からない。でも切るとまたかかってくるんですよ。

やなぎ それはライブですか、録音なんですか。

岡室 ライブです。だから俳優さんはどこかで喋っているんです。だから切っても切っても追いかけてくるみたいな、怖かったですね(笑)。

小崎 それは優れた解釈ですね。

岡室 電話の暴力性ってあるじゃないですか。他のことをしていてもいきなりかかってくるという、そういう電話の暴力性とベケットの言葉のある種の暴力性の組み合わせが刺激的でしたね。

やなぎ ライブでやるって、俳優さんは大変ですよね。

岡室 いろんなところで喋っていたらしいですよ。

小崎 SNSの時代だとテキストベースだから、だいぶ様子が変わってきますね。僕は電話は好きじゃないから、なんとなくメールでやっちゃいますが。

岡室 昔は先生にコンタクト取るって電話しなきゃいけなくって、ハードル高かったじゃないですか。すごく言葉を考えて勇気を出してダイヤル回してみたいな…。最近の学生はメールとかLINEだから、本当に気軽に連絡取りますよね。こんなことを先生に頼む? みたいなことも頼まれたりしますけどね。それがいいのか悪いのか分かんないけど。

小崎 ベケットが生きていたら、SNSもきっと使ったんじゃないかという気はしますけど。

岡室 そうですね、きっと使ったでしょうね。

小崎  やなぎさんは、ラジオドラマを書いてみようと考えたことはないんですか。

やなぎ ラジオドラマは考えたことないですね、多分一度もないです。

小崎 やっぱりビジュアルベースというか。

やなぎ そうですね。私はやっぱりビジュアルで考えているところはあります。

岡室 『ゼロ・アワー』でコンテンポラリーダンスの方が入られたっておっしゃっていましたけど、初演のときから机のちょっと幾何学的な感じの構造があって、これもベケット的で面白いなと思いました。

やなぎ テーブルがオープンリールの形になってなきゃいけないとか、そういうことにすごくこだわってしまうので、声だけの作品は今まで考えたことはないですね。常に景色から考えているというところはあります。

小崎 ちょっとやってみたら…

やなぎ やってみたら面白いとは思います。

岡室 きっと面白いと思います。

やなぎ 最近能楽の先生と一緒にやっていて、声は意味がどうとかではなくバイブレーションなので、ものすごく身体に響くというのかな…、これが神がかりというものなんだろうなとつい思ってしまいますね。間違いなくあれは神業なんだと思います。言葉の持つ意味というものはもう超越しているわけですね。空気の振動というものがずっと遥か向こうまで伝わっていくような感じがして、これが声のすごさなんだなと思いました。

岡室 でもなんかそれってちょっとラジオ的な感じ…

やなぎ 電波で伝わっていきますからね。私はやっぱり美術作家なので、それがものすごく新鮮でしたね。
 演劇を始めて一番新鮮だったのは、再現しないといけないということでしたから。これをまた最初からやるの?みたいな。美術ってモノができたら、うまく美術館が収蔵してくれたりすると半永久的に存在するわけですけど、演劇ってまた一から立ち上げて人を集めて、発話して、稽古して、その声が瞬時にして消えていくという…。これは一体どういう表現なんだと思いましたけども、今でも毎回新鮮ですね。

岡室 でも消えていくからいいんですかね。

やなぎ 本当に消えているのかどうかは分からないけれど。逆のことを言うようですが声って残っているんじゃないかと思う時もあります。

岡室 面白い、なるほど。

やなぎ 波長ですから、どこかに残ってずっと地球を回っているのかもしれないですし…。だから決して美術作品が残って、演劇の声が残らない、とも言えないんだろうなと思ったりもしますね。

岡室 最近8Kで公演を録画する試みが始まっていて、2022年に沖縄で井上ひさしの『紙屋町さくらホテル』の8K上映会に行ったんですよ。8Kってもう人間の肉眼を超えているんですよね。
 『紙屋町さくらホテル』ってご存知の方も多いと思うんですけど、ある劇団が広島にやってきて、いろんなことが描かれるけど、実はその劇団の人たちというのは全員原爆で亡くなるんです。劇の中ではそれは描かれてないんだけど、これから亡くなる人たちの劇なんですよね。
 さっきの話とも繋がるんですけど、普通にその舞台を見るときはほぼ役者さんしか見てないと思うんですけど、8K上映で見るとカメラで写し取られた空間全体がそこにあるんですよ。そうするとね、亡くなった人たちの何かが立ち込めているような気がしちゃうんです。それはこっちの思い込みかもしれない、この人たちこれから死ぬんだって思うからそういうふうに見えちゃうのかもしれないんだけど、何か空間に充満するものが感じ取れた気がして。だから8K上映って単に舞台公演を精緻に映し出すだけじゃなくて、何か別の観劇体験なんじゃないかということを思ったんです。実際に舞台を見ることの代替物じゃなくて、なにか別の奇妙な体験なんじゃないかと思いました。

小崎 ラジオもそうかもしれない。つまり、視覚が奪われて聴覚だけ聞き入る。作るのは大変でしょうけどそこに何がイメージできるものが…。

やなぎ  そうですね、確かに人間の視覚を超えるというのは確かにすごく研究になるかもしれない…でもそれは演劇を8Kで撮って上映するのですか?

岡室 そうです、舞台を8Kで撮っているんです。
そうすると普段見ないようなものを見ちゃうんですよ。役者さんたちが演技して、その上の方の空間がぽっかりあって…、そんなもの見ないじゃないですか、生の舞台だったら。でもそのぽっかり空いた空間が奇妙に何か充満している感じがするんですよ。

やなぎ 今のでよく分かりました。『ゼロ・アワー』はすごく上手く編集して撮ってくださっていますけど、確かに演劇の記録撮影って定点だったりしますし、上演記録というのは割と退屈だったりしますよね。それが8Kで撮ったら不思議な空間が見えてくるということですね。

岡室 そうですね、どこか肉眼を超えてくような感じが…。

やなぎ 映画ともまた違いますよね。

岡室 違うんですよ。これは面白いところで、舞台公演の映像を見るという体験は、映画を見るということと生の舞台を見るということの間にあるんですよね。どちらでもない、何かやっぱり別の体験なんだと思います。

やなぎ 面白いと思います、映画ってカットがありますよね。最近ワンカットみたいな映画があります。実際にはデジタル使って、ワンカットに見せていたりする。でも演劇ってカットしないでその空間でずっと通すというのが本当に空恐ろしいことですよね。それがたとえ30分であっても3時間であっても、止まらないということ。それが演劇やっていてすごく怖いことだと思ったりもします。

岡室 この空間にも声の残響みたいなものが漂っているかもしれないですよね。

小崎 J・G・バラードが『音響清掃』という短いSF作品を書いています。ものすごく耳がいい、ダニエル山田みたいな男がいて、古い教会に行くとそこで何世紀も歌われてきたコーラスの音が聞き取れるというんです。それが年を経るにしたがってノイズが入って汚れていくので掃除する役割を担わされている。もうめちゃくちゃな設定なんですけど、あれは面白いと思ったな。

岡室 それってさっきの中上健次の「語りというのが、単一の主体のものじゃない」に繋がりますね。

小崎 繋がっていますね。そうかもしれない。

岡室 そろそろ時間ですかね。

小崎 そうですね。今日はオープニングイベントということで、ベケットについて幾分かでもお分かりいただけたら嬉しいと思います。岡室美奈子さん、やなぎみわさん、今日は本当にどうもありがとうございました。

 

「サミュエル・ベケット映画祭2024」オープニングイベント
第一部 やなぎみわ×小崎哲哉(司会)
https://k-pac.org/readings/14540/