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[座談会] アジア舞台芸術交流の過去・現在・未来
―前篇―
内野 儀(司会)×丸岡 ひろみ×藤原 ちから

本座談会は、共同利用・共同研究拠点「アニュアルレポート」vol.8に掲載された特集記事のロングバージョンです。

左から、内野、丸岡、藤原

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内野
 丸岡さんがディレクターを務めてきたTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)は、今年12月にYPAM(横浜国際舞台芸術ミーティング)として再出発します。今日はまず、TPAMとは何かというお話を伺いたいと思います。それから藤原さんは評論の他、アーティストとしても盛んに活動されてきましたが、藤原さんのアジアとの交流はTPAMにおける出会いをきっかけにしていますので、そのあたりについて伺いたいと思います。
 少しだけ過去を踏まえておくと、アジアとの国際交流の歴史では、1972年に設立された国際交流基金が大きな役割を果たしてきました。重要なのは特殊法人であり民間の出資も受け入れる半官半民という位置づけですね。1990年にASEAN文化センターが開設、1995年にこれがアジアセンターに改組された。それから2004年にアジアセンターは本部事業に統合され、独立行政法人になり予算削減されて事実上、解散。2014年にもう一度、別組織(第二次アジアセンター)として立ち上がり、これ以降が丸岡さん・藤原さんの活動とかなり関係してくると思います。もちろんTPAMは現在のアジアセンターが設置される以前から活動していて、「芸術見本市」として始まり「Market」から「Meeting」に名称を変更しているわけですが。
 一つ断っておくと「国際化」と「グローバライゼーション」という言葉がありますが、この二つは割と混同されていると思うんですね。国際化が字義通り、国を前提として交流する態度、あるいは制度的な圧力であるのに対して、グローバライゼーションでは国家がいわば後景に退いて、個人が固有の文化を背負って移動する。「インターカルチュラリズム」という言葉は、「間文化主義」「異文化接触主義」と訳されながらも日本ではあまりポピュラーになりませんでしたが、文化の交流には国家だけではない、個人のなかのさまざまな要素が含まれていて、人の存在のありようが規定されていると思います。現在のアジアセンターでは、グローバライゼーションにおける国際交流という側面が強く、もちろん日中関係や日本とASEANの関係等をめぐるさまざまな政治的な思惑が制約となっていますが、現実的にはグローバライゼーションの世界が前提とされている。そしてそこに関わってきたTPAMが、コロナ禍においてYPAMに変わり、新たな時代を迎えようとしているわけですね。

 

TPAMとアジア・フォーカス

丸岡
 TPAMは1995年に設立されました。団体で実行委員会を組むという形式をとり、現在まで主催団体はさまざまに変わっています。オリンピック招致など行政の政策の影響を受けつつも、国際交流基金が第一回からTPAM2020まで主催団体の一角を、PARC(国際舞台芸術交流センター)が全回を通して事務局を担ってきました。内野さんが説明されていた「第二次」アジアセンターが国際交流基金に設立され、それまでよりも大きな予算が国際交流基金から割り当てられたことによりTPAM2015から「アジア・フォーカス」とはっきり謳ってプログラムするようになりました。
 私は2005年にディレクターになり、それまでとは異なり、同時代的な舞台芸術の国際交流に焦点を当てて運営しました。そのことにより、実験的な欧米のプラットフォームやフェスティバルのプレゼンターから注目を集めることになったと思います。コンテンポラリー・パフォーミング・アーツを牽引するヨーロッパの国際的なフェスティバルのディレクターが、欧州のそれとは異なる価値観を持って取り組んでいる作品を世界中で探す。もちろんグローバリゼーション化の影響があったと思います。そしてアジアから招聘された作家やプロデューサーが、ヨーロッパのフェスティバルで繰り返し会う機会が生まれるわけですが、しかし、「なぜアジアで会わないんだろう」という違和感が出てくるわけですね。
 そのような背景とともに、TPAMとしてはIETM(※1)との関わりが影響しています。IETMは、東西の壁を越えて実験的な作品を紹介するために始まったとされるプレゼンター(フェスティバルのディレクター、劇場の企画制作者など)のネットワークです。元々はユーロセントリックな組織でしたが、ネットワークを世界に拡張すべきという考えが内部から生まれ、2005年に実施された第一回のアジアでのサテライト・ミーティングはシンガポールで実施され、オン・ケンセン、ロー・キーホン、タン・フクエンなど、現在、世界各地で活躍する人たちが出席しています。

(※1):IETMは、1981年に「Informal European Theatre Meeting」として発足。現在は略称「IETM」を保持しつつ「International Network for Contemporary Performing Arts」と名乗っている。舞台芸術関係者の会員制ネットワークであり、総会を年2回ヨーロッパ諸都市で開催する他、ヨーロッパ以外を開催地とするサテライト・ミーティングなどを実施している。
 
 私は特に当時のIETMのあり方にプラットフォームの運営者として多くの学ぶべきことを見出しており、総会やサテライト・ミーティングに積極的に参加をしていました。IETMのアジアでのサテライト・ミーティングはシンガポールだけでなく、その後、北京、上海、韓国、日本、インドネシアなどで、各地のフェスティバルやTPAMのような見本市と一緒に開催され(TPAMでは2008年と2011年に実施)、そこで繰り返し会うことになるアジアの同業者たちとの対話や共通の経験も、TPAMをアジアのプラットフォームの一つとして充実させることを加速化させたと思います。それがアジア各国各地の政治や経済の状況と寄り添っていました。韓国、香港、台湾などに大型の劇場などが次々につくられた時期でもあります。そのようななかで「アジアとは何か」「アジアの同時代とは何か」という問いが必然的に立ち上がり、映像や美術のフィールドで活躍しているアーティストを招いて作品を委嘱するなど、新しい作家の発掘の機会にもなりました。特にアジア芸術劇場でのキム・ソンヒがつくったフェスティバル(韓国・光州)やオン・ケンセンがディレクターを務めていたシンガポール国際芸術祭は、国を超えてアジアを再定義することを試みつつ素晴らしいプログラムを展開していました。同じ頃、アジアから新しい価値を提案するという言い方をよく聞きましたが、彼女/彼らのフェスティバルだけではなく、新作をアジアの作家に国際共同製作として委嘱するフェスティバルや劇場が増えていったと思います。
 TPAMのアジア・フォーカスについては、アジアの同業者の声だけではなく、欧米の参加者からの、せっかく日本に来るなら日本だけでなくアジアの作品も見たいという以前からの要望とも合致する形で始まりました。それまでのTPAMでは予算的に、自国の助成金で渡航費を賄えない、そういう制度がほとんどない国の作家を紹介できることは稀でしたが、前述したように予算面の問題はクリアされました。
 ところで、アジア・フォーカスを始めた際、TPAMディレクションの初の海外ディレクターとなったタン・フクエンが言ったことをよく覚えています。「アジアの作品を紹介するなら単に素晴らしいものでは駄目、すごく素晴らしくなければいけない。そうじゃなければ説得できないだろう」と。当時のその「説得」の対象には、おそらくヨーロッパのフェスティバルがイメージされていた。一方に西洋的な価値観・美学ではもう面白くないという感じがあり、一方にアジアから新しい価値をつくっていくというムーブメントがある。アジア・フォーカスは、そうした世界の動きとともに進行していきました。
 先ほど欧米の参加者からアジアの作品を観たいという要望があったと言いましたが、しかし一方でエスニックな要素を含まない同時代的な作品が紹介される機会は比して少なかったと思います。

内野 舞台芸術がメインカルチャーであるヨーロッパにおいて新たな価値を探す必要が生まれて、非ヨーロッパが求められた。当初は、タン・フクエンが言ったように西洋的な価値がどこかで意識化されていたけれど、そこから少し離れて同時代のアジア的価値を創造することは可能かという問いが、2015年くらいから続いてきたということですね。
 TPAMでは、年々、自発的な参加者数が拡大しています。本当に自由広場のようになっていて、丸岡さんのマネージメントが凄かったのだと思います。TPAMディレクション(多様なディレクターと協力して組まれるラインナップ)、エクスチェンジ(新しい情報を得てネットワークを広げるために活用することのできるプログラム)、それともう一つ、ありましたよね。

丸岡 フリンジ(横浜・東京エリアで実施される公演・プロジェクトを対象とする公募プログラム)ですね。フリンジでは参加者に登録料を払ってもらい、自分で主催する公演を登録してもらっています。

内野 フリンジでは参加者どうしのさまざまなつながりが展開していきましたが、それが5年間続いてき
たわけですね。

 

 

「アジア」のインパクト、プラットフォームの多極化

内野 丸岡さんのお話を受けて、あるいは別の視点でも結構ですが、藤原さんからもアジアとの交流についてお話しいただけますか。

藤原 僕はTPAMで人生が変わったくらいの影響を受けていますが、まずは別角度から、東京周辺で小劇場と呼ばれる演劇を批評してきた人間として、「アジア」がどのように見えていたのか話してみたいと思います。そのことでTPAMのインパクトが、よりクリアになるかもしれません。
 まず記憶に残っているのは、アジア舞台芸術祭2009で上演された「アジアンキッチン」という上演シリーズ。それから2010年、東京芸術劇場での快快[FAIFAI]とB-Floor(バンコクのフィジカル・シアターカンパニー)のコラボレーション。その後、フェスティバル/トーキョーの公募プログラムでチョイ・カファイやダニエル・コックたちの作品を観て、未知の存在としての「アジア」に少しずつ触れていきました。この頃は、アジアの舞台芸術をどういう文脈で受けとめたらいいのか正直、全然わからなくて、2012年にシアタースタジオ・インドネシアがF/Tアワードを取ったとき、審査委員長をされていた内野さんにTwitterで噛み付いた記憶があります(笑)。後日マンハイムの世界演劇祭で内野さんとお会いした時に、その話から始まって、以後お話させていただくようになったんですけど。
 その「わからない」という状態が大きく変わったのは、2013年に多田淳之介さん主宰の東京デスロックが第12言語スタジオと組んだ『가모메 カルメギ』がきっかけかもしれません。この初演のとき、僕は初めて韓国を訪れたのですが、日帝時代の歴史を扱った作品をソウルの観客に混じって観ることに、それまで体験したことのなかった緊張と興奮を感じたのを覚えています。翌年、多田さんが東アジア文化交流使の活動で韓国を訪れ、演出家のユン・ハンソルさん、批評家のチョン・ジンセさんと、コ・ジュヨンさんのコーディネートで対話するという企画があり、僕も批評家として帯同して、彼らと密に話し合う機会を得ました。またその一方で、相馬千秋さんが2012年から開催していたr:ead(レジデンス・東アジア・ダイアローグ)で、英語ではなく韓国語・中国語を使って対話を試みていたことにも刺激を受けました。
 そうして次第に「アジア」が無視できない存在として自分の視界を占めていくなかで、強いインパクトを受けたのは、TPAM 2014でも紹介された範宙遊泳の『幼女X』ですね。翌年のTPAMで、この作品はタイのDemocrazy Theatreとのコラボレーションでリメイクされていますが、この頃からTPAMを通して「アジア」を身近に感じるようになりました。TPAM 2015では、宮永琢生ディレクションとして僕の『演劇クエスト 横浜トワイライト編』が上演されたのですが、これにフィリピンのアーティスト、JK・アニコチェが興味を持ってくれて、彼がディレクターを務めるカルナバル・フェスティバルに参加することになりました。単発の上演ではなくて、「3年間かけて一緒に何かやりたいから付き合ってほしい」ということで継続的にフィリピンに行くことになり、文字通り人生が変わる体験になりました。現地に行かなければ見えないことがある、ということは身に沁みましたね……。TPAMには毎年なんらかの形で参加してきましたが、そこで出会った人たちのホームを訪ねるような感覚で、アジア各地を旅するようになりました。 
 2017年の夏には、台北でADAM(※2) が開催され、ここから舞台芸術における台湾のプレゼンスが大きくなったように感じています。僕はファシリテーターだったタン・フクエンに招かれて、アジア各地のアーティストたちと二週間一緒に過ごし、最終的に彼らと『IsLand Bar』という作品を発表しました。一方、同じ2017年にバンコクではBIPAM(※3)も始まっていますよね。僕が初めて訪れた2018年には、プレゼンターのササピン・シリワーニットとジューン・タンとの公の場での対話で、「BIPAM はTPAMをモデルにしている」という話がありました。いわゆるフェスティバルではなく、アーティストやプロデューサーが集まる場をつくる、そのお手本がTPAMだったと思うんですね。

(※2):ADAMは「Asia Discovers Asia Meeting for Contemporary Performance」の略称。台北パフォーミング・アーツ・センターが主催するパフォーマンス・ネットワークであり、アジア太平洋地域各地のパートナーと連携してアーティスト間の交流を深め、芸術的発展と異文化コラボレーションを推進している。

(※3):BIPAMは「Bangkok International Performing Arts Meeting」の略称。舞台芸術の創造に関わる人々のためのグローバルなプラットフォームであり、バンコク劇場ネットワーク、タイ国際批評家センター、タイ高等教育舞台芸術連盟の連携により開催されている。

 
 こうして2017年以降、TPAMとある程度、方向性を共有するプラットフォームが、アジアで多極化してきた印象があります。他にも2019年からはシンガポールでAAMR(Asian Art Media Roundtable)という国際会議が始まり、これはジャーナリストや批評家が集まり、ネットワークを生み出そうとする珍しいものです。ともかくTPAMに刺激を受けるようにして、いろいろなプラットフォームが生まれてきた。やはり大きかったのは、TPAMがフェスティバルでもマーケットでもなく、ミーティングであるということですよね。単に作品を発表する、売り買いするのではなく、会うこと、集まること、話すこと。その結果、アジアの流動性が増すことになった。内野さんが早くから注目されていた言葉でいうと「移動性(モビリティ)」の向上に大きく貢献したのではないかと思っています。
 

ADAM2017にて。アーティスト・ラボは複数の言語や文化が交錯する場になっていた。Photo by Chikara Fujiwara

 

内野 移動性(モビリティ)ということでは、当然、そこで多元化ということが起きています。フェスティバルという近代的なプロジェクト、つまりモダニズム、近代的思考でヨーロッパに培われてきたものに何かを付け足す芸術をフィーチャーするイベントに対抗する、アジア的価値、ポストコロニアルな思想が、いい意味で拡散し、多元化していく。
 そこでは作品そのものの強度はどうなるかという問題が出てきますよね。例えば藤原さんの『演劇クエスト』では、現地を綿密に調査してブックをつくり、参加者がそのブックに沿って地域を探索する形式をとっているし、『IsLand Bar』でもある程度のフィクショナルなフレームはあるにしろ、やはり参加度が高い。もちろんTPAMには、観客がずっと席に座り、舞台上の物凄いダンサーを観るといった上演もあるわけですが、そうではない様々な価値観が、アジアのアーティストそれぞれの出自や個人史に移行するように立ち上がっている。
 一方、こうした価値は今の日本国内において不利で、わかりにくいと見なされる面もあると思うんですね。つまりいわゆるコロナ禍においてという意味ですが、同じような形式・テーマで、「日本人的」と想定されるある種のアイデンティティのカテゴリーに応えなければ排除されるというか、そうなりつつあるようにも思うのですが……。
 藤原さんのお話を受けて、丸岡さんいかがですか。

丸岡 同時代の舞台芸術では、総合的・包括的・普遍的なアプローチよりも、断片的・実験的・単独的なアプローチが好まれ、共同体を代表するものより個人主義的なアプローチが支持されていた。しかし内野さんがおっしゃるように「日本人的」と想定されるある種のアイデンティティのカテゴリーは、断片的・実験的・単独的なアプローチによってより高度に達せられつつも結局は国家的文化アイデンティティにまた再回収されているということでしょうか……。
 藤原さんが話されたように、各地の見本市やフェスティバルなどのプラットフォームは相互的に常に影響し合っていると思います。TPAMが始まる際は他のモデルがあったし、TPAMをモデルとしてソウルの見本市やBIPAMができたというように。台北のADAMは、アーティストが主役のプラットフォームですが、プレゼンターを主な参加対象としているTPAMなどのプラットフォームに対して良い意味で批判的に立ち上がったものだと思います。
 藤原さんが、アジアの作家と日本人のコラボレーションについて話されていましたが、時期的にアジア、特に東南アジアへの一般的な関心が、観光とか経済とかそういうものですが、高まっていったことと無関係ではないと思います。2015年に光州で初演、TPAMやKYOTO EXPERIMENTで上演されたマレーシアのファイブ・アーツ・センターのマーク・テによる『Baling』を例に挙げてみます。この公演は、タイトルの通りバリン会談(※4)を扱っており冒頭ではマレーシアの歴史を解説するシーンがありますが、マレーシアという国の歴史が、自分たちの歴史や現在の状況に直結するものとして感じるほど、身近になってきていると多くの観客が感じたのではないでしょうか。

(※4):バリン会談は、1955年、マレーシアの現政権(マラヤ連邦)とマラヤ共産党の首脳が直接対話を行った歴史的会談。マラヤ非常事態・革命闘争を終結させ、戦争で荒廃したマレー半島に和平をもたらすための異例の試みとして、世界中の注目を集めた。
 

マーク・テ『Baling』/TPAM2016での上演 Photo by Kazuomi Furuya
 

(2021年7月9日、オンラインにて開催。その後、加筆・修正)

内野 儀(うちの・ただし)
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇、パフォーマンス理論)。『「J演劇」 の場所ートランスナショナルな移動性(モビリティ)へ』(東京大学出版会、2016 年)ほか。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。TDR誌(The MIT Press)の編集協力委員。

丸岡 ひろみ(まるおか・ひろみ)
PARC‐国際舞台芸術交流センター理事長、YPAM‐横浜国際舞台芸術ミーティング(旧TPAM)ディレクター、舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM) 副理事長。2003−2010年、ポストメインストリーム・パフォーミング・アーツ・フェスティバル(PPAF)創設運営。TPAMと併設してIETMアジア・サテライト・ミーティング(2008、2011年)、アジアの制作者を集めた「舞台芸術制作者ネットワーク会議」(2009年)を開催。2012年にはフェスティバル「サウンド・ライブ・トーキョー」を創設。

藤原 ちから(ふじわら・ちから)
1977年高知生まれ、横浜在住。住吉山実里とorangcosongを結成し、アーティスト、批評家、キュレーター、ドラマトゥルクとしてアジアを中心に活動。『演劇クエスト』を横浜、城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山、香港、東京、バンコク、ローザンヌで展開。台北の ADAM2017では多国籍のアーティストたちと『IsLand Bar』を考案した。2017年度よりセゾン文化財団シニア・フェロー、文化庁東アジア文化交流使。